・・・桜の花や日の出をとり合せた、手際の好い幕の後では、何度か鳴りの悪い拍子木が響いた。と思うとその幕は、余興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行った。 舞台は日本の室内だった。それが米屋の店だと云う事は、一隅に積まれた米俵が、わずかに・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・下町、山の手、昼夜の火沙汰で、時の鐘ほどジャンジャンと打つける、そこもかしこも、放火だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。 三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて…・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 表通りで夜番の拍子木が聞える。隣村らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほとんど洗濯の手を止め、一応母屋の様子にも心を配った。母屋の方では家その物まで眠っているごとく全くの寝静まりとなった。おとよはもう洗い物には手が着かない。起って・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ そのつぎには、カチ、カチと拍子木を鳴らして紙芝居が、原っぱへ屋台をおろしたのです。 たくさん子供たちが、わいわいと集まってきました。ヨシ子さんも、三郎さんも、我慢がしきれなくなって、とうとう、そっちへかけ出していってしまいました。・・・ 小川未明 「左ぎっちょの正ちゃん」
・・・ 厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木を鼓いて、その後から十六七位の女がガチャ/\三味線を鳴らし唄をうたいながら入って来た。一人の酔払いが金を遣った。手を振り腰を振りして、尖がった狐のような顔を白く塗り立てたその踊り子は、時々変な斜・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それを雁首に挿込んでおいて他方の端を拍子木の片っ方みたような棒で叩き込む。次には同じようにして吸口の方を嵌め込み叩き込むのであるが、これを太鼓のばちのように振り廻す手付きがなかなか面白い見物であった。またそのきゅんきゅんと叩く音が河向いの塀・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・そういう時にまたよく程近い刑務所の構内でどことなく夜警の拍子木を打つ音が響いていた。そうして河向いの高い塀の曲り角のところの内側に塔のような絞首台の建物の屋根が少し見えて、その上には巨杉に蔽われた城山の真暗なシルエットが銀砂を散らした星空に・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・乳母の懐に抱かれて寝る大寒の夜な夜な、私は夜廻の拍子木の、如何に鋭く、如何に冴えて、寝静った家中に遠く、響き渡るのを聞いたであろう。ああ、夜ほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊・・・ 永井荷風 「狐」
・・・家に帰ると座敷の内には藪蚊がうなっていて、墻の外には夜廻の拍子木が聞えるのである。わたくしは芸術が其の発生し、其の発達し来った本国を離れて、気候風土及び人種を異にした境に移された場合、其の芸術の効果と云い或は其の価値と称するものの何たるかを・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ 往時、劇場の作者部屋にあっては、始めて狂言作者の事務を見習わんとするものあれば、古参の作者は書抜の書き方を教ゆるに先だって、まず見習をして観世捻をよらしめた。拍子木の打方を教うるが如きはその後のことである。わたしはこれを陋習となして嘲・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫