・・・ その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮膚がたるんでいると、一眼にわかった。いきなり宿帳の「三十四歳」を想い出した。それより若くは見えなかっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・すると提げていた氷が小さくなって縄から抜けて落ちた拍子に割れてしまった。驚いて拾い上げたが、もう縄に掛らなかったので、前掛けに包んで帰ろうとすると、石段につまずいて倒れた。手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻され・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私はその天水桶へ踏みこんだ晩、どんな拍子からだったか、その女を往来へ引っぱりだして、亡者のように風々と踊り歩いたものらしい。そして天水桶へ陥ったものらしい。彼はそのことも書くに違いない。――彼は今、哀しき道伴れという題で、私のことを書いてい・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・足が滑った拍子に気絶しておったので、全く溺れたのではなかったとみえる。 そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。―― 兄の話のあらましはこんなものだった。ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きてゆかなけれ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ そうする中に、志村は突然起ち上がって、その拍子に自分の方を向いた、そして何にも言いがたき柔和な顔をして、にっこりと笑った。自分も思わず笑った。「君は何を書いているのだ、」と聞くから、「君を写生していたのだ。」「僕は最早水車・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ かつて酒量少なく言葉少なかりし十蔵は海と空との世界に呼吸する一年余りにてよく飲みよく語り高く笑い拳もて卓をたたき鼻歌うたいつつ足尖もて拍子取る漢子と変わりぬ。かれが貴嬢をば盗み去ってこの船に連れ来たらばやと叫びし時は二郎もわれも耳をふ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・そうしてその拍子にとび/\しながら柵から外へ出た。三人の、大切な洋服を着た男は、糞に汚れた豚に僻易して二三歩あとすざりした。豚は彼等が通らせて呉れるのをいゝことにして外へ出てしまった。 一匹が跳ね、騒ぎだしたのにつれて、小屋中の豚が悉く・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・剣をつけた銃を振りまわした拍子に、テーブルの上の置ランプが倒れた。床板の上で、硝子のこわれるすさまじい音がした。 扉の前に立っていた兵士達は、入口がこわれる程、やたらに押し合いへし合いしながら一時になだれこんできた。 彼等は、戸棚や・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・それはみんな我々の歌の拍子になっていた。俺ときたら「インターナショナル」でさえ、あやふやにしか知っていないので困った。相手のたゝいて寄す歌が分ると、そのしるしに、こっちからも同じ調子で打ちかえしてやる。隣りはその間、自分のをやめて聞いている・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・妹はそして椅子に坐る拍子に、何故か振りかえって、お母さんの顔をちらッと見た。母は後で、その時はあ――あ、失敗ったと思ったと、元気のない顔をして云っていた。横に坐っていた上田の母が、「まア、まア、あんたとこの娘さんにもあきれたもんだ」と、母に・・・ 小林多喜二 「母たち」
出典:青空文庫