・・・「またか。」 陳は太い眉を顰めながら、忌々しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、靴の踵を机の縁へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、紙切小刀も使わずに封を切った。「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 拝啓。山田君は病気で故郷へ帰った。貴兄の縁談は小生が引継がなければならなくなった。しかるに小生は、君もご存じのとおり、人の世話など出来るがらの男ではない。素寒貧のその日暮しだ。役に立ちやしないんだ。けれども、小生と雖も、貴兄の幸福な結・・・ 太宰治 「佳日」
拝啓。 突然にて、おゆるし下さい。私の名前を、ご存じでしょうか。聞いた事があるような名前だ、くらいには、ご存じの事と思います。十年一日の如く、まずしい小説ばかりを書いている男であります。と言っても、決して、ことさらに卑・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・「拝啓。歴史文学所載の貴文愉快に拝読いたしました。上田など小生一高時代からの友人ですが、人間的に実にイヤな奴です。而るに吉田潔なるものが何か十一月号で上田などの肩を持ってぶすぶすいってるようですが、若し宜しいようでしたら、匿名でも結構で・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 拝啓。 ながい間ごぶさた致しました。 御からだいかがですか。 全くといっていいほど、 何も持っていません。 泣きたくなるようでもあるし、 しかし、 信じて頑張っています。 前便にくらべると、苦しみが沈潜・・・ 太宰治 「散華」
・・・ 拝啓。この手紙は、あなたに何かお願いする手紙でもないし、また訴えの手紙でもありませんし、また誰かを非難しようとする手紙でも無いのです。私は家の者にも、打ち明けていない事実を、せめて、あなたひとりに知って置いてもらいたくてこの手紙を書く・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・ 拝啓。 死ぬことだけは、待って呉れないか。僕のために。君が自殺をしたなら、僕は、ああ僕へのいやがらせだな、とひそかに自惚れる。それでよかったら、死にたまえ。僕もまた、かつては、いや、いまもなお、生きることに不熱心である。けれども僕・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
拝啓。 一つだけ教えて下さい。困っているのです。 私はことし二十六歳です。生れたところは、青森市の寺町です。たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。わたしはそのトモヤの・・・ 太宰治 「トカトントン」
拝啓。暑中の御見舞いを兼ね、いささか老生日頃の愚衷など可申述候。老生すこしく思うところ有之、近来ふたたび茶道の稽古にふけり居り候。ふたたび、とは、唐突にしていかにも虚飾の言の如く思召し、れいの御賢明の苦笑など漏し給わんと察・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ちょっと読んでみるわね。拝啓。為替三百円たしかにいただきました。こちらへ来てから、お金の使い道がちっとも無くて、あなたからこれまで送っていただいたお金は、まだそっくりございます。あなたのほうこそ、いくらでもお金が要るでございましょうに、もう・・・ 太宰治 「冬の花火」
出典:青空文庫