・・・眼を拭く手巾の色が白く見えた。しかし身体には更紗のような洋服を着ていた。この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。 ある晩甲板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。自分は・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・入れた手を盥から出した。拭くのが面倒だから壁へむいて二三返手をふってそれから「カルルス」塩の調合にとりかかった。飲んだ。それからちょっと顔をしめして「シェヴィング・ブラッシ」を攫んで顔中むやみに塗廻す。剃は安全髪剃だから仕まつがいい。大工が・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ただ吉里の顔を見つめているのみであッたが、やがて涙は頬を流れて、それを拭く心もつかないでいた。「吉里さん」と、廊下から声をかけたのは小万である。「小万さん、まアお入りな」「どなたかおいでなさるんじゃアないかね」と、小万は障子を開・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 頭の地にすっかりオレーフル油を指ですりつけて、脱脂綿で、母がしずかに拭くと、細い毛について、黄色の松やにの様なものがいくらでも出て来る。 小半時間もかかって、やっと、しゃぼんで洗いとると今までとは見違える様に奇麗になって、赤ちゃけ・・・ 宮本百合子 「一日」
・・・ 紙をまとめて、机代りの箱の上にのせ、硯に紙の被をし筆を拭くと、左の手でグイと押しやって、そのまんま燈りの真下へ、ゴロンと仰向になった。 非常に目が疲労すると、まぼしかるべきランプの光線さえ、さほどに感じない様になるのだ。 黒い・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マグダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・アルコールを貰って水にわって体を拭くことは出来ないものでしょうか。 私は今月の初めからずっときのうまで非常に忙しく沢山勉強もしたし、自身で堪能するだけ書くものにしろ深めたものを書いたので、読んでいただけないのがまことに残念です。そのため・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・という恐怖が目覚めて、大いそぎで涙を拭く彼女は、激情の緩和された後の疲れた平穏さと、まだ何処にか遺っている苦しくない程度の憂鬱に浸って、優雅な蒼白い光りに包まれながら、無限の韻律に顫える万物の神秘に、過ぎ去った夢の影を追うのであった。・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・丁寧に消毒した手を有合の手拭で拭くような事が、いつまでも止まなかった。 これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coup d'ドヨイユ であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話を・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
出典:青空文庫