・・・私が敢てサルトルを持ち出したのも、実はこのような日本文学の地盤の欠如を言いたいからである。「水いらず」は病気のフランスが生んだ一見病気の文学でありながら、病気の日本が生んだ一見健康な文学よりも、明確に健康である。この作品の作られる一九三・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・すると次は秘密のなかでもベッドシーンの秘密に興味を持ち出した。ところが、見たと思ったそれがどうやらちがうものらしくなって来た。しかしそのときの恍惚状態そのものが、結局すべてであるということがわかって来た。そうでしょう。いや、君、実際その恍惚・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 叔母の家から持ち出した金はわずか十円でございますから東京へ着きますと間もなく尺八を吹いて人の門に立たなければならぬ次第となりましたのです。それから二十八の年まで足かけ十年の間のことは申し上げますまい。国とは音信不通、東京にはもちろん、・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・そこで武も隠居仕事の五円十円説では到底夫婦さし向かいの碁打ちを説き落とすことはできないと考え、今度は遊食罪悪説を持ち出して滔々とまくし立ててみた。 石井翁はさんざん徳さんの武に言わしておいたあげく、「それじゃ、山に隠れて木の実を食い・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ 兵舎へ帰ると、一人で将棋盤を持出して駒を動かしていた松本が頭を上げてきいた。「いや。」「朝鮮人だそうだよ。三枚ほど刷った五円札を本に挟んで置いてあったそうだ。」「誰れからきいた?」「今、尿道注射に来た憲兵が云っとった。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・は随分うるさいのですが、其の代り銘々が自家でもって十分苦しんで読んで、字が分らなければ字引を引き、意味が取れなければ再思三考するというように勉強した揚句に、いよいよ分らないというところだけを先生の前に持出して聞くのですから、一人が先生の何分・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏を持ち出して、よく延びやすい自分の爪を切った。 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・そのうちに東京は大空襲の連続という事になりまして、何が何やら、大谷さんが戦闘帽などかぶって舞い込んで来て、勝手に押入れの中からブランデイの瓶なんか持ち出して、ぐいぐい立ったまま飲んで風のように立ち去ったりなんかして、お勘定も何もあったもので・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 家の南側に、釣瓶を伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよければ、細君はそこに盥を持ち出して、しきりに洗濯をやる。着物を洗う水の音がざぶざぶとのどかに聞こえて、隣の白蓮の美しく春の日に光るのが、なんとも言えぬ平和な趣をあたりに・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・二階に客のない時は大広間の真中へ椅子を持出して、三十疊を一人で占領しながら海を見晴らす。右には染谷の岬、左には野井の岬、沖には鴻島が朝晩に変った色彩を見せる。三時頃からはもう漁船が帰り始める。黒潮に洗われるこの浦の波の色は濃く紺青を染め出し・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫