・・・「そこで城山戦死説だが、あの記録にしても、疑いを挟む余地は沢山ある。成程西郷隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戦で、死んだと云う事だけはどの史料も一致していましょう。しかしそれはただ、西郷隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云うのにすぎな・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・二羽の黒い蝶の事、お島婆さんの秘密の事、大きな眼の幻の事――すべてが現代の青年には、荒唐無稽としか思われない事ですが、兼ねてあの婆の怪しい呪力を心得ている泰さんは、さらに疑念を挟む気色もなく、アイスクリイムを薦めながら、片唾を呑んで聞いてく・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、ある・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・その水底にはお前さんが大きな蟹になって待っていて、鋏でわたしを挟むのだわ。それが今ここにこうしているわたしだわ。ほんにほんに憎いったら、憎いったら、憎いったらない。そうしてじいっとして坐っていて落ち着き払って、黙っているのが癪に障るわ。今の・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・流を挟む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々と烟る。娑婆と冥府の界に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色である。画に似たる少女の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。 舟はカメロットの水門に横付けに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 余が某氏の言に疑を挟むのは、自分に最も密接の関係のある文壇の近状に徴して、決してそうではあるまいとの自信があるからである。政府は今日までわが文芸に対して何らの保護を与えていない。むしろ干渉のみを事とした形迹がある。それにもかかわらず、・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・してみると階級が違えば種類が違うという意味になってその極はどんな人間が世の中にあろうと不思議を挟む余地のないくらいに自他の生活に懸隔のある社会制度であった。したがって突拍子もない偉い人間すなわち模範的な忠臣孝子その他が世の中には現にいるとい・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙る評価には、案外な点もあるいはあるといわれるかも知れないが、自分が如何にしてこんな人間に出来上ったかという径路や因果や変化については、善悪にかかわらず不思議を挟む余地がちっともない。ただかくの如く生れ、・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・親の愛は実に純粋である、その間一毫も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ば・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・その相伴うや、相共に親愛し、相共に尊敬し、互いに助け、助けられ、二人あたかも一身同体にして、その間に少しも私の意を挟むべからず。即ち男女居を同じうするための要用にして、これを夫婦の徳義という。もしも然らずして、相互いに疎んじ相互いに怨んでそ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫