・・・鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鉄唖鈴で以て、左りぎっちょの逞しい腕に力をこめて、Kの口調で云うと、「えゝ憎き奴め!」とばかり、殴りつけて寄越したのだそうであった。「……K君そりゃ本当の話かね? 何でまたそれ程にする必要があったんか・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。―― 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そし・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・立ち続く峰々は市ある里の空を隠して、争い落つる滝の千筋はさながら銀糸を振り乱しぬ。北は見渡す限り目も藐に、鹿垣きびしく鳴子は遠く連なりて、山田の秋も忙がしげなり。西ははるかに水の行衛を見せて、山幾重雲幾重、鳥は高く飛びて木の葉はおのずから翻・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と親類縁者も今では意見する者なく、店は女房まかせ、これを助けて働く者はお絹お常とて一人は主人の姪、一人は女房の姪、お絹はやせ形の年上、お常は丸く肥りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人は衣装にも振りにも頓着なく、糯米を磨ぐことから小豆・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・といって身の振り方をつけるためばかりに男子を見、石橋をたたいてみてから初めて恋をするというような態度でも困る。これは可愛らし気がなく、純な娘らしい雰囲気がなくなるからだ。恋愛は一方では、意識選択ではなく、運命であるという趣きがあるということ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。 郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振りかえって嬉しそうに莞爾笑い、「いいよ、黙って待っておいで。 たちまち姿は見えずなって、四五軒先の鍛冶屋が鎚の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、「ハテナ、近・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 私たち親子はその晩久しぶりで――一年振りかも知れません――そろって銭湯に出かけて行きました。「お母さんの背中を流してあげるわ。」この娘がいつになくそんなことをいゝます。私は今までの苦労を忘れて、そんな言葉にうれしくなりました。 と・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・尺知れねば要害厳しく、得て気の屈るものと俊雄は切り上げて帰りしがそれから後は武蔵野へ入り浸り深草ぬしこのかたの恋のお百度秋子秋子と引きつけ引き寄せここらならばと遠くお台所より伺えば御用はないとすげなく振り放しはされぬものの其角曰くまがれるを・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。「オイ、とうさんが見てるよ。」 と言って、三郎はそこへ笑いころげた。 私たちの心はすでに半分今の住居を去っていた。 私は茶の間に集まる子供らから離れて・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫