・・・彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・しかしどうも世の中はうっかり感心も出来ません、二三歩先に立った宿の主人は眼鏡越しに我々を振り返ると、いつか薄笑いを浮かべているのです。「あいつももう仕かたがないのですよ。『青ペン』通いばかりしているのですから。」 我々はそれから「き・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・白は二三間追いかけた後、くるりと子犬を振り返ると、叱るようにこう声をかけました。「さあ、おれと一しょに来い。お前の家まで送ってやるから。」 白は元来た木々の間へ、まっしぐらにまた駈けこみました。茶色の子犬も嬉しそうに、ベンチをくぐり・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間へ閃いた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀となく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきな・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、「おお、幸、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のま・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安んじたが、振り返ると、もうこれも袂まで潮が来て、海月はひたひたと詰め寄せた。が、さすがに、ぶくぶくと其処で留った、そして、泡が呼吸をするような仇光で、 と曳々声で、水を押し・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・と腰元は振り返る。「何を、姫を連れて来い」 夫人は堪らず遮りて、「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」 看護婦は窮したる微笑を含みて、「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でござい・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と若衆も驚いて振り返ると、お上さんのお光はいつの間にか帰って背後に立っている。「精が出るね」「へへ、ちっともお帰んなすったのを知らねえで……外はお寒うがしょう?」「何だね! この暖かいのに」と蝙蝠傘を畳む。「え、そりゃお天気・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振り返るような気持であった。(春・・・ 梶井基次郎 「路上」
出典:青空文庫