・・・ 房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に憂鬱な眼つきになった。 ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水のにおいのする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり明るんで見えるのは、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・――いつかも修善寺の温泉宿で、あすこに廊下の橋がかりに川水を引入れた流の瀬があるでしょう。巌組にこしらえた、小さな滝が落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れが煽って、こう、颯・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 胡桃の根附を、紺小倉のくたびれた帯へ挟んで、踞んで掌を合せたので、旅客も引入れられたように、夏帽を取って立直った。「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか――それに、近い頃、参詣が・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・お神さんは私を引入れましたが、内に入りますと貴方どうでございましょう、土間の上に台があって、荒筵を敷いてあるんでございますよ、そこらは一面に煤ぼって、土間も黴が生えるように、じくじくして、隅の方に、お神さんと同じ色の真蒼な灯が、ちょろちょろ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・平生聞ゆるところの都会的音響はほとんど耳に入らないで、うかとしていれば聞き取ることのできない、物の底深くに、力強い騒ぎを聞くような、人を不安に引き入れねばやまないような、深酷な騒ぎがそこら一帯の空気を振蕩して起った。 天神川も溢れ、竪川・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・とは、僕が、かの女のますます無邪気な様子に引き入れられて、思わず出した言葉だ。「そういう注文は困る、わ」吉弥は訴えるようにお袋をながめた。「じゃア」と、お袋は娘と僕とを半々に見て、「私に弾けなくッても困るから、やさしい物を一つやって・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ これを要するに、兎が餅を搗いているといった時代の子供の知識はその生活状態と調和していたがために、何等不自然を感ずることなく、その話の中に引入れられたのであるが、いまの子供達の知識はかゝる現実に根拠を有しない空想を拒否するがために他・・・ 小川未明 「新童話論」
・・・然し先方は何のこだわりも無く、身を此方へ近づけると同時に、何の言葉も無く手をさしのべて、男の手を探り取ってやさしく握って中へ引入れんとした。触った其手は暖かであった、なよやかであった。其力はやわらかであった、たしかに鄙しく無い女の手であった・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・――大川のおかみさんは、私はだまされたという程にも思わないが、警察に入れば直ぐその日から食えなくなるような夫を、何んだって引き入れてくれたかと、そればかり口惜しいと云うのだった。中にいる夫に蜜柑どころか、この寒さに足袋さえ入れてやることが出・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・戸で逢ったる長兵衛殿を応用しおれはおれだと小春お夏を跳ね飛ばし泣けるなら泣けと悪ッぽく出たのが直打となりそれまで拝見すれば女冥加と手の内見えたの格をもってむずかしいところへ理をつけたも実は敵を木戸近く引き入れさんざんじらしぬいた上のにわかの・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫