・・・ こう言われて、私は頭を掻いた。じつは私は昨日ようようのことで、古着屋から洗い晒しの紺絣の単衣を買った。そして久しぶりで斬髪した。それで今日会費の調達――と出かけたところなのだ。「書けたかね?」と、私は原口の側に坐って、訊いた。・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・出際に上り口から頭を出して『お早よう』と言いさま、妙に笑って頭を掻いて見せまして『いずれおわびは帰ってから』と、言い捨てて出て参りました。その後姿を見送って『アア悪いことをした』と私はギックリ胸に来ましたけれどもう追っつきません。それからと・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・真蔵は頭を掻いて笑った。「否、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処を開けさすのは泥棒の入口を作えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口を作えたようなものだ」とお徳が思わず地・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・彼は大きい、汚れた手で土を無茶くちゃに引き掻いた。そして、穴の外へ盲目的に這い上ろうとした。「俺は死にたくない!」彼は全身でそう云った。 将校は血のついた軍刀をさげたまゝ、再び軍刀をあびせかけるその方法がないものゝように、ぼんやり老人を・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・簪で髪の中を掻いているのである。 裏では初やが米を搗く。 自分は小母さんたちと床を列べて座敷へ寝る。 枕が大きくて柔かいから嬉しいと言うと、この夏にはうっかりしていたが、あんな枕では頭に悪いからと小母さんがいう。藤さんはこの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・大将は、左手で盃を口に運びながら、右手の小指で頭を掻いた。「委せられております。」「うむ。」先生は深くうなずいた。 それから先生と大将との間に頗る珍妙な商談がはじまった。私は、ただ、はらはらして聞いていた。「ゆずってくれるでしょ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 熊本君は、もう既に泣きべそを掻いて、「そんなに軽蔑しなくてもいいじゃないですか。僕だって、君の力になってやろうと思っているのですよ。」 私は、熊本君のその懸命の様子を、可愛く思った。「そうだ、そうだ。熊本君は、このとおり僕・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・仰向きに泥だらけの床の上に落ちて、起き直ろうとして藻掻いているのである。しばらく見ていたが乗客のうちの誰もそれを拾い上げようとする人はなかった。自分はそっとこの甲虫をつまみ上げてハンケチで背中の泥を拭うていると、隣の女が「それは毒虫じゃあり・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・犬は自分の汚さは自覚していないが、しかし癢いことは感ずるから後脚でしきりにぼりぼり首の周りを掻いていた。近頃のきたない絵もやはり自分のきたなさは感じないがその癢さを感じてぼりぼりブラシで引掻いたような痕が見える。 きたなく汚れて、それで・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・ と云いながら、真ッ赤になるほど、身体中を掻いてる男もある。「アラ、まあ大変な虱よ」 赤い襷をかけた女工たちは、甲斐甲斐しく脱ぎ棄てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩めている桶の中へ突っ込んでいる。「おい止せよ、女の眼前で・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫