・・・が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の襟髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。「この阿魔め。まだ剛情を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思いに命をとってやるぞ」 婆さんはナイフを振り上げまし・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 子爵は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。私は頷いた。雲母のような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗を翻した蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重めいた松の・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途に窮するため、拳を握り、足を爪立てているのである。 いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米薪さえ覚束ない生活の悪処に臨んで、―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出ようが、皆引掴んで頬張る気だか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・一株一握りにならないほど大株に肥えてる。穂の重みで一つらに中伏に伏している。兄夫婦はいかにも心持ちよさそうに畔に立ってながめる。西の風で稲は東へ向いてるから、西手の方から刈り始める。 おはまは省作と並んで刈りたかったは山々であったけれど・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」「まア政夫さんは何をしていたの。私・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ ただ一つ、そのおじいさんの持っていたバイオリンにめぐりあうのに、頼みとするのは、小さな星のような真珠が、握り手のところにはいっていたことです。少年は、ふるさとに近い町の道具屋は一軒のこらずにきいて歩きました。「真珠の小さな珠が、握・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・と、良吉は笑顔になって、そのやせた哀れな友だちの手を握りました。しかし、これが別れでありました。とうとう文雄はその晩死んでしまいました。二 良吉は悲しさのあまり泣きあかしました。文雄は村のお寺の墓地に葬られました。良吉は・・・ 小川未明 「星の世界から」
・・・“おお秋山さん”“おお長藤君か”二人は感激の手を握り合って四年前の回旧談に耽った。やがて長藤君が秋山君名義で蓄えた貯金通帳を贈れば、秋山君は救ったものが救われるとはこのことだと感激の涙にむせびながら、その通帳を更生記念として発奮を誓ったが、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・へ春団治の落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。 深くなり、柳吉の通い方は散々頻繁になった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫