・・・蕚傾けて舟を通したるあとには、軽く曳く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。 舟は杳然として何処ともなく去る。美しき亡骸と、美しき衣と、美しき花と、人とも見えぬ一個・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ」「どんなだい」「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」「その割に煙りがこないな」「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」「樹・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に神経は失くなり、多くの血管は断ち切られた。そして、その後では、新鮮な溌溂たる疼痛だけが残された。「オーイ、昨夜はもてたかい?」 ファンネルの烟を追っていた火夫が、烟の先に私を見付けて・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・気持よく食堂車は揺れ、快く酔は廻った。 山があり、林があり、海は黄金色に波打っていた。到る処にがあった。どの生活も彼にとっては縁のないものであった。 彼の反抗は、未だ組織づけられていなかった。彼の眼は牢獄の壁で近視になっていた。彼が・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・左側を見渡すと限りもなく広い田の稲は黄色に実りて月が明るく照して居るから、静かな中に稲穂が少しばかり揺れて居るのも見えるようだ。いい感じがした。しかし考が広くなって、つかまえ処がないから、句になろうともせぬ。そこで自分に返りて考えて見た。考・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・もっともガラスとランプの距離は一間余りあるので火の影は揺れてやや大きく見える。それをただ見つめて居ると涙が出て来る。すると灯が二つに見える。けれどもガラスの疵の加減であるか、その二つの灯が離れて居ないで不規則に接続して見える。全くの無心でこ・・・ 正岡子規 「ランプの影」
月そそぐいずの夜揺れ揺れて流れ行く光りの中に音もなく一人もだし立てば萌え出でし思いのかいわれ葉瑞木となりて空に冲る。乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・女としての咲きかかった花の美しさ、自覚の底に揺れ揺れている娘の感覚と、女としての夕やけの美しさ、見事さ、愁いと知慧のまじりあった動揺の姿とが、どんな人生の絵をつくり出すかということは、情痴の一面からではあるがモウパッサンが「死よりも強し」の・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・私は世界の運動を鵜飼と同様だとは思わないが、急流を下り競いながら、獲物を捕る動作を赤赤と照す篝火の円光を眼にすると、その火の中を貫いてなお灼かれず、しなやかに揺れたわみ、張り切りつつ錯綜する綱の動きもまた、世界の運動の法則とどことなく似てい・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・このときから、彼のさしもの天賦の幸運は揺れ始めた。それは丁度、彼の田虫が彼を幸運の絶頂から引き摺り落すべき醜悪な平民の体臭を、彼の腹から嗅ぎつけたかのようであった。四 千八百四年、パリーの春は深まっていった。そうして、ロシア・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫