・・・ 父が振かえった拍子に、犬の鼻へ包が擦りついた。犬は、砂をとばして素速く数歩逃げた。父は、ひどくびっくりしたらしく、娘達が思い設けぬ真面目な声で、「ゲッタアウエー! シッ! シッ!」と犬を叱った。娘達は傍で笑って見ている。斑犬は・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・のたのた歩き、段々広くもない町の右側に擦りよって行く。曲角でも近いのかと、首をさし延し、私は、瞬間、自分の眼を信じ得なかった。ジャパン・ホテルは、彼方の丘のクリーム色の軽快な建物などであるものか。つい鼻の先に横文字の招牌が出ている。而も、そ・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・が、切られない愛で息子の心中にある何ものかの横へまでこの母は思わず擦りよって行っているのである。「波」の中にある言葉に従えば、山本有三氏はこの社会というきたない大溝へ、せめて清水を流し込もうとしている一人の作者だと思う。この作家を愛する・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
・・・ と云って、花房は暫く擦り合せていた両手の平を、女の腹に当てた。そしてちょいと押えて見たかと思うと「聴診器を」と云った。 花房は佐藤の卓の上から取って渡す聴診器を受け取って、臍の近処に当てて左の手で女の脈を取りながら、聴診していたが・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・とうとうしまいには石田の耳の根に摩り寄って、こう云った。「こねえな事を言うては悪うござりまするが、玉子は旦那様の鳥も生まんことはござりません。どれが生んでも、別当さんが自分の鳥が生んだというのでござりますがな。」 婆あさんはおそるお・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・僕も歯の歪んだ下駄を引き摩りながら、田の畔や生垣の間の道を歩いて、とうとう目的地に到着した。 ここまで来る道で、幾らも見たような、小さい屋敷である。高い生垣を繞らして、冠木門が立ててある。それを這入ると、向うに煤けたような古家の玄関が見・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の上に跳ね起きた。すると、再び彼は笑い出した。「余は、余は、何物をも恐れはせぬぞ。余はアルプスを征服・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・また栖方は梶に擦りよって来ると、突然声をひそめ、今まで抑えていたことを急に吐き出すように、「巡洋艦四隻と、駆逐艦四隻を沈めましたよ。光線をあてて、僕は時計をじっと計っていたら、四分間だった。たちまちでしたよ。」 あたりには誰もいなか・・・ 横光利一 「微笑」
・・・シナの玉についての講義の時に、先生は玉の味が単に色や形にはなくして触覚にあることを説こうとして、適当な言葉が見つからないかのように、ただ無言で右手をあげて、人さし指と中指とを親指に擦りつけて見せた。その時あのギョロリとした眼が一種の潤いを帯・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫