・・・ 母の臨終の床でも私はあまり泣かなかったし、それからいろいろの儀式のうちに礼装をした父が白いハンカチーフをとり出して洟をかむときも、並んで坐っている私はその父の姿を渾心の力で支えるような気持で矢張りあまり泣けなかった。三十七年もの間生活・・・ 宮本百合子 「母」
・・・ 考えれば、寝ても立ってもおられぬときだのに、大厦を支える一木が小説のことをいうのである。遽しい将官たちの往き来とソビエットに挟まれた夕闇の底に横たわりながら、ここにも不可解な新時代はもう来ているのかしれぬと梶は思った。「それより、・・・ 横光利一 「微笑」
・・・自分の愛は二、三の特殊の場合をようやく支えるに足りるほどである。 それ故に自分は醜くまた弱い自分を絶えず眼の前に見ている。自分の我を以て常に人の弱所を突こうとしている卑しい自分を絶えず見まもっている。後悔が鋭く胸を刺すことも稀ではない。・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫