・・・トランプは兄の横顔に中って、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬を撲った。「生意気な事をするな。」 そう云う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。兄は彼に比べると、遥に体も大きかった。しかし彼は兄よりもが・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そこには薔薇の花の咲き乱れた路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが、数限りもなく散乱している。夜鶯の優しい声も、すでに三越の旗の上から、蜜を滴すように聞え始めた。橄欖の花のにおいの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・天が裂けたような一声の霹靂と共に紫の火花が眼の前へ散乱すると、新蔵は恋人と友人とに抱かれたまま、昏々として気を失ってしまいました。 それから何日か経った後の事です。新蔵はやっと長い悪夢に似た昏睡状態から覚めて見ると、自分は日本橋の家の二・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 家のまわりは秋ならなくに、落葉が散乱していて、見るからにさびしい。生垣の根にはひとむらの茗荷の力なくのびてる中に、茗荷茸の花が血の気少ない女の笑いに似て咲いてるのもいっそうさびしさをそえる。子どもらふたりの心に何のさびしさがあろう。か・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ようやく埒外に出れば、それからは流れに従って行くのであるが、先の日に石や土俵を積んで防禦した、その石や土俵が道中に散乱してあるから、水中に牛も躓く人も躓く。 わが財産が牛であっても、この困難は容易なものでないにと思うと、臨時に頼まれてし・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は溢れるばかりの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・の水を被ったりした商品、歪げたり破れたりしたボール箱の一と山、半破れの椅子や腰掛、ブリキの湯沸し、セメント樽、煉瓦石、材木の端片、ビールの空壜、蜜柑の皮、紙屑、縄切れ、泥草履と、塵溜を顛覆返したように散乱ってる中を煤けた顔をした異形な扮装の・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ 大興駅附近の丘陵や、塹壕には砲弾に見舞われた支那兵が、無数に野獣に喰い荒された肉塊のように散乱していた。和田たちの中隊は、そこを占領した。支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロ・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・小間切を叩きつけたような肉片や、バラ/\になった骨や肉魂がそこらに散乱していた。吹き飛ばされると同時に、したゝかにどっかを打ったらしい妊婦は、隅の方でヒイ/\虫の息をつゞけていた。 二十一人のうち、肉体の存在が分るのは、七人だった。・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・さらさらひらひら、と低く呟いてその形容を味わい楽しむみたいに眼を細めていらっしゃる、かと思うと急に、いや、まだ足りない、ああ、雪は鵝毛に似て飛んで散乱す、か。古い文章は、やっぱり確実だなあ、鵝毛とは、うまく言ったものですねえ、和子さん、おわ・・・ 太宰治 「千代女」
出典:青空文庫