・・・ 昭和五年、わたくしが初めて葛西橋のほとりに杖を曳いた時、堤の下には枯蓮の残った水田や、葱を植えた畠や、草の生えた空地の間に釣舟屋が散在しているばかりであったが、その後散歩するごとに、貸家らしい人家が建てられ、風呂屋の烟突が立ち、橋だも・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・団子屋の前を歩み過ぎて、堤から右手へ降りて行くと静かな人家の散在している町へ出る。 西洋から帰って来てまだ間もない頃のことである。以前日本にいた頃、柳橋で親しくなった女から、わたくしは突然手紙を貰い、番地を尋ねて行くと、昔から妾宅なぞの・・・ 永井荷風 「向島」
・・・ 道路は市中の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社らしいセメント造の建物と亜鉛板で囲った小工場が散在しているばかりで、人家もなく、人通りもない。道の左右にひろがっている空地は道路より・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切なるより出・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・吾人の哲学はこの二語を以て既に千六百万人の世界各地に散在する信徒を得た。否、凡そ神を信ずる者にしてこの二語を奉ぜざるものありや、細部の諍論は暫らく措け、凡そ何人か神を信ずるものにしてこの二語を否定するものありや。」咆哮し終ってマットン博士は・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・のうちに散在している。 中国の社会を歴史の遠近もはっきりつけてヨーロッパの心の上に、くっきり映してみせたパール・バックの作品は、世界文学の上にも意義をもっている。彼女の芸術は、東洋をうつす卓抜な鏡の一つであった。 近代日本の権力・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・いろいろの角度が散在しており、いろいろの個性が作用し、その角度と個性に戦時が影響している。そのために去年の大会の時もとりあげられたように、日本の民主革命と民族の自主的発展の課題に根をおいて、堂々とブルジョア文学の動き、民主主義文学の動きをひ・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
・・・種々の研究材料は、切支丹に関するもの、海外貿易に関するもの、その他、皆散在している。舶来された芸術品など、極めて立派なものが箇人の蔵にしまわれている由。それ故、長逗留をし、縁故を辿って気永く研究しようとする篤志家は兎も角、私のように貧しい予・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・開墾部落はその間に散在しているのだ。 南京豆と胡麻畑の奥に、小さい藁葺屋根の家が見えた。われわれ一行三人が、前庭に入って行くと、「よう!」 低い窓からこっちを見て勢のいい声をかけたのは主人××君だ。土間で手拭をかぶって働いてたお・・・ 宮本百合子 「飛行機の下の村」
・・・彼はもはや漫然と松林の中に茸を探すのではなく、松林の中のここかしこに散在する茸の国を訪ねて歩くのである。その茸の国で知人に逢う喜びに胸をときめかせつつ、彼は次から次へと急いで行く。ある国では寂として人影がない。他の国ではにぎやかに落ち葉の陰・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫