・・・彼は閾の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。 雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行っ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
九段坂の最寄にけちなめし屋がある。春の末の夕暮れに一人の男が大儀そうに敷居をまたげた。すでに三人の客がある。まだランプをつけないので薄暗い土間に居並ぶ人影もおぼろである。 先客の三人も今来た一人も、みな土方か立ちんぼう・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・まいかと鬼胎を抱くこと大方ならず、かつまた塩文とびを買って来いという命令ではあったが、それが無かったのでその代りとして勧められた塩鯖を買ったについても一ト方ならぬ鬼胎を抱いた源三は、びくびくもので家の敷居を跨いでこの経由を話すと、叔母の顔は・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・彼女は敷居の近くにその菓子を置いて、忍び足で弟の側へ寄った。「姉さん、障子をしめて置いたら、そんな犬なんか入って来ますまいに」と熊吉は言った。「ところが、お前、どんな隙間からでも入って来る奴だ。何時の間にか忍び込んで来るような奴だ。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 自分は素直に立って、独りで玄関へ下りたが、何だか張合が抜けたようでしばらくぼんやりと敷居に立っている。 と、「兄さん」と藤さんが出てくる。「あそこに水天宮さまが見えてるでしょう。あそこの浜辺に綺麗な貝殻がたくさんありますか・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。しばらく私のすが・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ドリスがいかに巧みに機嫌を取ってくれても、歓楽の天地の閾の外に立って、中に這入る事の出来ない恨を霽らすには足らない。詰まらない友達が羨ましい。あの替玉の銀行員が、新しい物を見て歩いているのも羨ましい。いくら端倪すべからざるドリスでも、もう眺・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・もしも、これがなかったら、われわれは食膳に向かって箸を取り上げることもできないであろうし、門の敷居をまたぐこともできないであろう。 空間の概略な計測には必ずしもメートル尺はいらない。人間の身体各部が最初の格好な物さしである。手の届かぬ距・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・そうして表の障子を外した閾を越えて往来まで一杯に成って居る。太十も其儘立って覗いて居た。斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が冴えて見える。一段畢ると家の内はがやがやと騒がしく成る。煙草の烟がランプをめぐって薄く拡がる。瞽女は危ふげな手の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「仕方がないから、襯衣を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩いた。そうしたら虱が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」「おやおや」「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」「さぞ困ったろうね」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫