・・・学生時代にはベエスボールの選手だった、その上道楽に小説くらいは見る、色の浅黒い好男子なのです。新婚の二人は幸福に山の手の邸宅に暮している。一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。……… 主筆 勿論震災前でしょう・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ ……陳は卓子に倚りかかりながら、レエスの窓掛けを洩れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字は、房子のイニシアルではないらしい。「これは?」 新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥の前に佇んだまま、卓子・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ ――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州逗子に過ごした時、新婚の渠の妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利験に生きたことを忘れない。南海霊山の岩殿寺、奥の御堂の裏山に、一処咲満ち・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」「オイ未だか」 岡村が吐鳴る。答える声もないが、台所の土間に下駄の音がする。火鉢の側な障子があく。おしろい真白な婦人が、二皿・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ ところが、四五日たって、新婚の夫婦を見舞うと、細君は変な顔をしていた。私は細君がいない隙をうかがって、「どうした、喧嘩でもしたのか」ときくと、「喧嘩はせんがね。どうもうまく行かん」「立ち入ったことをきくが、肉体的に一致せん・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ ある大衆作家は「新婚ドライブ競争」というような題の小説を書くほどの神経の逞しさを持っていながら、座談会に出席すると、この頃の学生は朝に哲学書を読み、夕に低俗なる大衆小説を読んでいるのは、日本の文化のためになげかわしいというような口を利・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 伊助の潔癖は登勢の白い手さえ汚いと躊躇うほどであり、新婚の甘さはなかったが、いつか登勢にはほくろのない顔なぞ男の顔としてはもうつまらなかった。そして、寺田屋をいつまでもこの夫のものにしておくためなら乾いた雑巾から血を絞りだすような苦労・・・ 織田作之助 「螢」
・・・彼らは公園の中の休み茶屋の離れの亭を借りて、ままごとのような理想的な新婚の楽しみに耽っていた。私も別に同じような亭を借りて、朝と昼とは彼らのところで御馳走になり、晩には茶屋から運んでくるお膳でひとり淋しく酒を飲んだ。Tは酒を飲まなかった。そ・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動は尋常でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於ける岩崎三井の・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・彼の妻――お島はまだ新婚して間もない髪を手拭で包み、紅い色の腰巻などを見せ、土掘りの手伝いには似合わない都会風な風俗で、土のついた雑草の根だの石塊などを運んでいた。「奥さん、御精が出ますネ」 と音吉は笑いながら声を掛けて、高瀬の掘起・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫