・・・ 彼が新調の煙管を、以前ほど、得意にしていない事は勿論である。第一人と話しをしている時でさえ滅多に手にとらない。手にとっても直にまたしまってしまう。同じ長崎煙草が、金無垢の煙管でのんだ時ほど、うまくないからである。が、煙管の地金の変った・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・この紀元節に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。……… 保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩きながら、光沢の美しいシルク・ハットをありありと目の前に髣髴した。シルク・ハットは円筒の胴に土蔵の窓明りを・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ この女から妻は吉弥の家の状態をも聴き、僕の推知していた通り吉弥の帰るのを待っている男があって、今度もそれが拵えてやった新調の衣物を一揃えお袋が持って来たということまで分った。引かされるのを披露にまわる時の用意になるのであったろう。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・実業熱が長じて待合入りを初めてから俄かにめかし出したが、或る時羽織を新調したから見てくれと斜子の紋付を出して見せた。かなり目方のある斜子であったが、絵甲斐機の胴裏が如何にも貧弱で見窄らしかったので、「この胴裏じゃ表が泣く、最少し気張れば宜か・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 壁の衣紋竹には、紫紺がかった派手な色の新調の絽の羽織がかかっている。それが明日の晩着て出る羽織だ。そして幸福な帰郷を飾る羽織だ。私はてれ隠しと羨望の念から、起って行って自分の肩にかけてみたりした。「色が少しどうもね。……まるで芸者・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・いたしおり候 しかし今は弁当官吏の身の上、一つのうば車さえ考えものという始末なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をもって一つ新調をいたすはずに候 一輛のうば車で・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地小劇場をおごる。」 と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、「築地へは行きたいし、どうしても洋服・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・しかし、その新調の背広を着て見ることすら、彼には初めてだ。「どうかして、一度、白足袋を穿いて見たい」 そんなことすら長い年月の間、非常な贅沢な願いのように考えられていた。でも、白足袋ぐらいのことは叶えられる時が来た。 比佐は名影・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・渦まく淵を恐れず、暗礁おそれず、誰ひとり知らぬ朝、出帆、さらば、ふるさと、わかれの言葉、いいも終らずたちまち坐礁、不吉きわまる門出であった。新調のその船の名は、細胞文芸、井伏鱒二、林房雄、久野豊彦、崎山兄弟、舟橋聖一、藤田郁義、井上幸次郎、・・・ 太宰治 「喝采」
・・・八拾円ニテ、マント新調、二百円ニテ衣服ト袴ト白足袋ト一揃イ御新調ノ由、二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客。早朝、門ニ立チテオ待チ申シテイマス。太宰治様。深沢太郎。」「謹啓。其の後御無沙汰いたして居りますが、御健勝ですか。御伺い申しあげます。二三・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫