・・・ 彼等はまず京橋界隈の旅籠に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家の侍に不伝流の指南をしている、恩地小左衛門と云う侍の屋敷に、兵衛らしい侍のかくまわれている事が明かに・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ ただ夫人は一夜の内に、太く面やつれがしたけれども、翌日、伊勢を去る時、揉合う旅籠屋の客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。明治三十六年五月 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・……遊山旅籠、温泉宿などで寝衣、浴衣に、扱帯、伊達巻一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても可いが想像が出来る。膚を左右に揉む拍子に、いわゆる青練も溢れようし、緋縮緬も友染も敷いて落ちよう。按摩をされる方は、対手を盲にしている。そこに・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・「おお、そか、この町の旅籠じゃよ。」「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その亭主らしい、長面の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛け・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「あれは、はあ、駅長様の許へ行くだかな。昨日も一尾上りました。その鱒は停車場前の小河屋で買ったでがすよ。」「料理屋かね。」「旅籠屋だ。新築でがしてな、まんずこの辺では彼店だね。まだ、旦那、昨日はその上に、はい鯉を一尾買入れたでな・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 向直って顔を見合せ、「この家は旦那様、停車場前に旅籠屋をいたしております、甥のものでも私はまあその厄介でございます。夏この滝の繁昌な時分はかえって貴方、邪魔もので本宅の方へ参っております、秋からはこうやって棄てられたも同然、私も姨・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――積雪のために汽車が留って難儀をすると言えば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、そうだ、行って行けなそうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思って、早や壁も天井も雪の空のようになった停車場に、しばらく考えていましたが、余り不躾・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・可哀相でね、お金子を遣って旅籠屋を世話するとね、逗留をして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人のような嫉妬やきだし、相場師と云うのが博徒でね、命知らずの破落戸の子分は多し、知れると面倒だから、次の宿まで、おいでなさいって因果を含めて、…・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・日も、懐中も、切詰めた都合があるから、三日めの朝、旅籠屋を出で立つと、途中から、からりとした上天気。 奥羽線の松島へ戻る途中、あの筋には妙に豆府屋が多い……と聞く。その油揚が陽炎を軒に立てて、豆府のような白い雲が蒼空に舞っていた。 ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
出典:青空文庫