・・・しかし僕らは大旅行をしても、旅費は二十円を越えたことはなかった。僕はやはり西川といっしょに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。 私は――」 とここで名告った。 八「年は三十七です。私は逓信省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・―― で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染が出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余焔の冷めるまで故郷へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の纏まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を二、三十冊わざわざ自分で買って来てYの退先きへ届けてくれたそうだ。普通の常識では・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ なにをするにしても、病身であって、思うように力が出ず、疲れていましたから、ほんとうに、どうしたら旅費がつくれるだろうと考えながら、少年は路を歩いていました。 少年の頭には、このばあい浮かんだものは、乞食をするということよりほかに、・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ お姫さまは、旅費などは用意してきたので、べつにお金はほしくもなかったが、こうしてしんせつに知らぬ人がいってくれるのを、あだに思ってはならないと思って、深くお礼を申されました。 夜になったときに、お姫さまは、みんな自分のような貧しい・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・秋ももう深けて、木葉もメッキリ黄ばんだ十月の末、二日路の山越えをして、そこの国外れの海に臨んだ古い港町に入った時には、私は少しばかりの旅費もすっかり払きつくしてしまった。町へ着くには着いても、今夜からもう宿を取るべき宿銭もない。いや、午飯を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ところが、ますますばかなことには、苦しいその夜が明けて、その家を出る時、私は文子に大阪までの旅費をうっかり貰ってしまったのです。東京の土地にうろうろされてはわてが困ります、だから早く大阪へ帰ってくれという意味の旅費だったのでしょう。むろん突・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ ある支店長のごときは、旅費をどう工面したのか、わざわざ静岡から出て来て、殆んど発狂同然の状態で霞町の総発売元へあばれ込み、丹造の顔を見た途端に、昂奮のあまり、鼻血を出して、「川那子! この血を啜れ! この血を。おれの血の最後の一滴・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・これを外してしまえば、もう帰りの旅費もない。 ぱっと発馬機がはね上った。途端に寺田は真蒼になった。内枠のハマザクラ号は二馬身出遅れたのだ。駄目だと寺田はくわえていた煙草を投げ捨てると、スタンドを降りて、ゴール前の柵の方へ寄って行った。も・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫