・・・夢現の境を漂うて夜のふくるをも知らざりしが、ふと心づきて急に床に入りたれど今は心さえてたやすくは眠るあたわず、明けがた近くなりてしばしまどろみぬと思うや、目さめし時は東の窓に映る日影珍しく麗かなり、階下にては母上の声す、続いて聞こゆる声はま・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・この時はちょうど午後一時ごろで冬ながら南方温暖の地方ゆえ、小春日和の日中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融けそうに生あたたかに、山にも枯れ草雑りの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 鍬かたげし農夫の影の、橋とともに朧ろにこれに映つる、かの舟、音もなくこれを掻き乱しゆく、見る間に、舟は葦がくれ去るなり。 日影なおあぶずりの端に躊ゆたうころ、川口の浅瀬を村の若者二人、はだか馬に跨りて静かに歩ます、画めきたるを見る・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟、業通自在の世界であったろうか、それは傍からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ふりむくと、刀をさしたさむらいが、夏木立の青い日影を浴びて立っていた。シロオテである。髪を剃ってさかやきをこしらえていた。あの浅黄色の着物を着て、刀を帯び、かなしい眼をして立っていた。 シロオテは片手あげておいでおいでをしつつ、デキショ・・・ 太宰治 「地球図」
・・・これまでの経験ではまだ具体的な案は得られないが、適当にやれば、従来なら日影でいじけてしまうような天才を日向へ出して発達させる事も出来ようというのである。 著者はこれにつづいて、天才を見付ける事の困難を論じ、また補助奨励と天才出現とは必ず・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・怖ろしい夢は破れて平和な静かな冬の日影は斜に障子にさしている。縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかっている。発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供が・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 近頃にない舒びやかな心持になって門を出たら、長閑な小春の日影がもうかなり西に傾いていた。 三 ノーベル・プライズ ある夜いつものように仕事をしていると電話がかかって来た。某新聞社からだという。何事かと思って出・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 辰之助が来たのは、山の上に見えた日影が、もうだいぶうすれたころであった。「大掃除はどうかね」「やがて片づくでしょうが、今東京から電報が来まして、りいちゃんが病気だそうだ」辰之助は緊張した表情でそう言って、電報を道太に渡した。・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫