・・・私はその頃日記をつけていなかったので確な事は覚えていない。或日再び小石川を散歩した。雨気を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野のよ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・或日一家を携えて、場末の小芝居を看に行く日記の一節を見ると、夜烏子の人生観とまた併せてその時代の風俗とを窺うことができる。明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のお神さんと阿久とを先に出懸・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」「へえ、どんなものだい」「そりゃ君、仏国の革命の起る前に、貴族が暴威を振って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寝ながら話してやろ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二人死んで自分だけ残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。あの病人は嘔気があって、向うの端からこっちの果まで響くような声を出して始終げえげえ吐いていたが、この二三日それがぴた・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・ 私はその日の日記にこう書いている。 ――昨夜、かなり時化た。夜中に蚊帳戸から、雨が吹き込んだので硝子戸を閉めた。朝になると、畑で秋の虫がしめた/\と鳴いていた。全く秋々して来た。夏中一つも実らなかった南瓜が、その発育不十分な、他の・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ドイツの国民性を解剖し、ワイマール共和国の功罪を論じ、一知識人の日記の形でナチス運動の発展のあとをたどり、ナチス以外のドイツが、ヒトラー打倒のためにどうたたかっているかを訴えた。「野蛮人の学校」では、ナチス治下の教育が、どんなにドイツの少年・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・などを発表し、菊池寛が「無名作家の日記」を発表したりした時代であった。婦人作家として、野上彌生子が「二人の小さきヴァガボンド」を発表し、ヨーロッパ風な教養と中流知識人の人道的な作風を示した。「焙烙の刑」その他で、女性の自我を主張し、情熱を主・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第一巻)」
・・・全唐詩話 桐薪唐詩紀事 玉泉子六一詩話 南部新書滄浪詩話 握蘭集彦周詩話 金筌集三山老人語録 漢南真稿雪浪斎日記 温飛卿詩集・・・ 森鴎外 「魚玄機」
・・・細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読み・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・そうして十月十日の日記には「午前井上先生を訪う。先生の日本哲学をかける小冊子を送らる。……元良先生を訪う。小生の事は今年は望みなしとの事なり」と記されている。多分東京大学での講義のことであろう。この学期から初めて講師になって哲学の講義を受け・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫