・・・現に彼の脚はこの通り、――彼は脚を早めるが早いか、思わずあっと大声を出した。大声を出したのも不思議ではない。折り目の正しい白ズボンに白靴をはいた彼の脚は窓からはいる風のために二つとも斜めに靡いている! 彼はこう言う光景を見た時、ほとんど彼の・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・保吉は敬礼されるのも敬礼に答えるのも好まなかったから、敬礼する暇を与えぬように、詰め所を通る時は特に足を早めることにした。が、この大浦と云う守衛だけは容易に目つぶしを食わされない。第一詰め所に坐ったまま、門の内外五六間の距離へ絶えず目を注い・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・この三つの音が次第に調子を早める。高角度に写された煙突から朝餉の煙がもくもくと上がり始めると、あちらこちらの窓が明いて、晴れやかな娘の顔なども見える。屋上ではせんたく物を朝風に翻すおかみさんたちの群れもある。これらの画像の連続の間に、町の雑・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・美代と二人でよこせばよかったと思いながら、無言で歩調を早める。植物園の門をはいってまっすぐに広いたらたら坂を上って左に折れる。穏やかな日光が広い園にいっぱいになって、花も緑もない地盤はさながら眠ったようである。温室の白塗りがキラキラするよう・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ ヒューマニズムの提唱が、その意識的、或は論者の社会的所属によって生じている矛盾の無意識な反映として内包していた誤れる抽象性によって、或る意味で文化の分裂を早める力となったことは、実に再三、再四の反省を促す点であろうと思われる。 文・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・百姓は夢中で橇を速める。小さい裸の人間の形をしたものも益々泣き叫んで追っかけて来る。――馬の尻をたたきつづけて百姓はやっと村へ着き、恐ろしかった自分の経験を人々に話した。 怪しんで村から人が出た。 百姓の逃げ去った雪路の上には、その・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・風のない午後四時、蝉は鳴きしきっているが、庭の芝、松の木などの間から漂う香が、何か秋らしさで私の脈搏を速める。 朝、私は全く思いがけず、裏の叢の上に蓼の花の咲き出したのを見つけた。 蓼の花は高く咲いている。 秋が更けて空が澄んだ・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・ それは確に幸福な婚姻の日を、早めるに役立つことになるだろう。 秋三は着いた。不足な賃銀を握った馬丁のように荒々しく安次を曳いて、「勘次、勘次。」と呼びながら這入って来た。勘次は黙って出迎えた。「これ勘公、逃げさらすなよ。」・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫