・・・ あまり詳しい計算などは略して、ごく概略に考えても、要するに少しおくれて停留所に来た車は、少し早めにそこに来た車よりも統計的に多数の乗客を収容しなければならない事は明らかである。 もちろん下車する人の事も考えなければならないが、今の・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・自然主義者にして今少し手強く、また今少し根気よく猛進したなら、自ら覆るの未来を早めつつある事に気がつくだろう。人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦めば山に遯るる心安さもあるべし。鏡の裏なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍乃至四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ もう三日ほどしたらと思って居たのを急に早めて翌日の一番で立つ事にした。「お前が行ったって死ぬものははあ死ぬべーっちぇ。 いろいろに引きとめるのをきかないで私は手廻りのものを片づけたり、ぬいだまんま衣桁になんかかけて置い・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・溺れて死ぬまいとする婦人たちは、子供たちをかばいながら、そのためにあがきは一層不自由になり、疲れを早めながら、みんな自己流に水をかいて、やっと水面から顔をあげている。 手記のほとんどすべてが、そういう印象を与える。したがって、目前にもが・・・ 宮本百合子 「『この果てに君ある如く』の選後に」
・・・が、その一面プロレタリア文化団体は、小林多喜二の死によってうけた震撼と恐慌によって崩壊を早めつつあった。文学団体が機関誌さえも順調に刊行できず、団体解散の理由を、直接治安維持法の暴力によるものと明言し得ないで、指導者と指導理論の批判に藉口す・・・ 宮本百合子 「小林多喜二の今日における意義」
・・・と、りよは独言のように云って、足を早めて部屋へ引き返した。 部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠の蓋を開けた。先ず取り出したのは着換の帷子一枚である。次に臂をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 事実彼にとって、眼前の魚は、煙で彼の妻の死を早めつつある無数の勇敢な敵であった。と同時に、彼女にとっては、魚は彼女の苦痛な時期をより縮めんとしている情ある医師でもあった。彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列が、急に無意味な意味を含め・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・時にはその短所のゆえに成長が早められているとさえも思う。しかし愛を感じない人の短所は、多くの場合致命的に見える。私はともすればそういう人の長所や苦しみや努力を見脱してしまう。そうしてその際、自欺の衣を剥ぎ偽善の面をもぐような、思い切った皮肉・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫