・・・て盪しければ、船は難無く風波を凌ぎて、今は我物なり、大権現の冥護はあるぞ、と船子はたちまち力を得て、ここを先途と漕げども、盪せども、ますます暴るる浪の勢に、人の力は限有りて、渠は身神全く疲労して、将に昏倒せんとしたりければ、船は再び危く見え・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・父は暗い空の上からこう言った気がして、私はフラフラと昏倒するような気持になった。そこの梅の老木の枝ぶりも、私には誘惑だった。私はコソコソと往きとは反対の盗み足で石段を帰ってきたが、両側の杉や松の枝が後ろから招いてる気がして、頸筋に死の冷めた・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・述作の際非常に頭を使う結果として、しまいには天を仰いで昏倒多時にわたる事があるので、奥さんが大変心配したという話も聞いた。そればかりではない、先生は単にこの著作を完成するために、日本語と漢字の研究まで積まれたのである。山県君は先生の技倆を疑・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見て・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。 そしてただひとり暗いこけももの敷物を踏んでツ・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・山口が太いステッキを振って椅子の上から荒れ狂い、何にもしない明大生を、わきにいたばっかりに殴りつけ昏倒させたという記事が出ている。大衆の圧力と、彼等の狼狽が、新聞の大きい活字と活字の間から湧きたって感じられる。「――到頭最後の悲鳴をあげ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・そして、監房の中で昏倒し、昏睡状態で家へ運ばれた。 二日ほどして意識が恢復しはじめた。最初の短い覚醒の瞬間、ひろ子は奇体な、うれしいものを見た。それは、自分に向って心から笑っている吉岡の顔であった。吉岡が、特徴的に太い眉根をうごかして、・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・の中に燃えている人間的尊厳の抗議、給料を祖父にとられる貧しい小僧だから、淫売をする洗濯女といちゃついて、酔倒れた兵卒のポケットから財布を掠めもするだろうと思われ、全然事実とは違うその卑俗な偏見によって昏倒する迄彼を殴りつけた周囲の人々の独善・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫