・・・いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映ずるのを感じた。しかしこの標本室へ来れば、剥製の蛇や蜥蝪のほかに誰一人彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。…… 落ち合う時間は二時で・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ 私は思うに、これは多分、この現世以外に、一つの別世界というような物があって、其処には例の魔だの天狗などという奴が居る、が偶々その連中が、吾々人間の出入する道を通った時分に、人間の眼に映ずる。それは恰も、彗星が出るような具合に、往々にし・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・ と声ふるえて、後ろの巡査に聞こえやせんと、心を置きて振り返れる、眼に映ずるその人は、……夜目にもいかで見紛うべき。「おや!」と一言われ知らず、口よりもれて愕然たり。 八田巡査は一注の電気に感ぜしごとくなりき。 ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、ひょろ松檜葉などに滴る水珠は夕立の後かと見紛うばかりで、その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何とも云えぬすがすがしさを添えている。主人は庭を渡る微風に袂を吹かせながら、おのれの労働が為り出した快・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ この夫婦のように、深く相愛して愛におぼれず、堅く相信じて信に甘えないというのは、アメリカ人の目にはよほど珍しく目新しい一大発見として映ずるかもしれないが、日本人には実は少しも珍しくもなんともない、むしろ規準的な夫婦関係のスタンダードで・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(※[#ローマ数字7、1-13-27])」
・・・ ある学者甲が見ると相当な価値があり興味があると思われる一つの論文が、他の学者乙の眼から見るとさっぱり価値のない下らないものに見えることがあり、また反対に甲の眼には平凡あるいは無意味と映ずる論文が、乙の眼には非常に有益な創見を示すものと・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・ 胃の腑の適当な充血と消化液の分泌、それから眼底網膜に映ずる適当な光像の刺激の系列、そんなものの複合作用から生じた一種特別な刺激が大脳に伝わって、そこでこうした特殊の幻覚を起こすのではないかと想像される。「胃の腑」と「詩」との間にはまだ・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・そうして、この効果は暗黒にならされた目にあまり強くない光の帯が映ずる場合に特に著しいように思われたのである。 この事実と、前述の二人の見たという火の玉の進行の現象とは何か縁がありそうに思われる。一つの可能性は、上記の浴室の軒の明かり窓の・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だ・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・眼は文字の上に落つれども瞳裏に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物のごと・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫