・・・そのとき吉田がその病舎の食堂で、何心なく食事した後ぼんやりと窓に映る風景を眺めていると、いきなりその眼の前へ顔を近付けて、非常に押し殺した力強い声で、「心臓へ来ましたか?」 と耳打ちをした女があった。はっとして吉田がその女の顔を見る・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・あらず、なお一人の乙女知れり、その美しき眼はわが鈍き眼に映るよりもさらに深く二郎が氷れる胸に刻まれおれり。刻みつけしこの痕跡は深く、凍れる心は血に染みたり。ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して弁解の文を二郎が友、われに・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・稲が刈り取られて林の影が倒さに田面に映るころとなると、大根畑の盛りで、大根がそろそろ抜かれて、あちらこちらの水溜めまたは小さな流れのほとりで洗われるようになると、野は麦の新芽で青々となってくる。あるいは麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・客観的な戦争は、探照燈の行った部分だけ青く着色されて映るが、探照燈はすべてを一時に照らすことは出来ない。だから、闇の見えない部分が常に多く残されている。そして若し、別の探照燈で映すならば、現実は、全然ちがった姿に反映するかもしれないのだ。芥・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・なんていう蛮カラ的の事は要せぬようになりまして、男子でも鏡、コスメチック、頭髪ブラッシに衣服ブラシ、ステッキには金物の光り美しく、帽子には繊塵も無く、靴には狗の髭の影も映るというように、万事奇麗事で、ユラリユラリと優美都雅を極めた有様でもっ・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・彼女が心ひそかに映ることを恐れたような父親の面影のかわりに、信じ難いほど変り果てた彼女自身がその鏡の中に居た。「えらい年寄になったものだぞ」 とおげんは自分ながら感心したように言って、若かった日に鏡に向ったと同じ手付で自分の眉のあた・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 長く東京で年月を送って来た高瀬には、塾の周囲だけでも眼に映るものが多かった。庭にある桜の花は開いて見ると八重で、花束のように密集ったやつが教室の窓に近く咲き乱れた。濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁に・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・岬の上には警報台の赤燈が鈍く灯って波に映る。何処かでホーイと人を呼ぶ声が風のしきりに闇に響く。 嵐だと考えながら二階を下りて室に帰った。机の前に寝転んで、戸袋をはたく芭蕉の葉ずれを聞きながら、将に来らんとする浦の嵐の壮大を想うた。海は地・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・そうして丹波の山奥から出て来た観覧者の目に映るような美しい影像はもう再び認める時はなくなってしまう。これは実にその人にとっては取り返しのつかない損失でなければならない。 このような人は単に自分の担任の建築や美術品のみならず、他の同種のも・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・この町でも別にいいというほどの庭ではなかったけれど、乾いた頭脳には、じじむさいような木石の布置が、ことに懐かしく映るのであった。「少し手入れをするといいんですけれど」辰之助はそう言って爪先に埃のついた白足袋を脱いでいたが、彼も東京で修業・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫