・・・そのませた、小娘らしい声は、春先の町の空気に高く響けて聞こえていた。ちょうど袖子はある高等女学校への受験の準備にいそがしい頃で、遅くなって今までの学校から帰って来た時に、その光子さんの声を聞いた。彼女は別に悪い顔もせず、ただそれを聞き流した・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・持たせてやるものも、ないよりはまだましだぐらいの道具ばかり、それでも集めて、荷物にして見れば、洗濯したふとんから何からでは、おりから白く町々を埋めた春先の雪の路を一台の自動車で運ぶほどであった。 その時になって見ると、三人の兄弟の子・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でもふって土のしめっているところへ日光が当たって、そこから白い湯げが立つことがよくあります。そういうときによく気をつけて見てい・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・ もし記憶の衰退率がどうにかなって、時の尺度が狂ったために植物の生長や運動が私の見た活動写真のように見えだしたらどうであろう。春先の植物界はどんなに恐ろしく物狂わしいものであろう。考えただけでも気が違いそうである。「青い鳥」の森の場面ぐ・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・ 小さいつつじの蔭をぬけたり、つわぶきの枯れ葉にじゃれついたり、活溌な男の子のように、白い体をくるくる敏捷にころがして春先の庭を駆け廻る。 私は、久しぶりで、三つ四つの幼児を見るように楽しい、暖い、微笑ましい心持になって来た。子供の・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 冬と春先のみじめな東北の人達はだれでも力のみちたはずむ様な夏をやたらに恋しがる通り仙二は夏をまだ雪の真白にある頃からまって居た。 池の水草の白い花が夕もやの下りた池のうす紫の中にほっかり夢の様に見える様子や、泳ぎながらその花で体中・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・父の上を思い、いろいろの なぐさめや悦びを与えたい。――それは、勿論 ものばかりが我心のまことを告げは しない。けれども、ものも 入用るときがある。春先 一緒に 二日三日の旅もしたい。子供の時から愛され 又我・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・去年の秋、引越して来てから文学に行きつまった時、心が沈んだ時、または、元気よく嬉しく庭に下りた時、幾度この梢を見上げたことだろう。春先、まだ紫陽花の花が開かず、鮮やかな萌黄の丸い芽生であった頃、青桐も浅い肉桂色のにこげに包まれた幼葉を瑞々し・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・ その日はもう大変にいい天気で、このごろにない暖かな日差しが朝早くから輝いて、日が上りきるとまるで春先のようにのどかな気分が、あたりに漂うほどであった。 一区切り仕事を片づけた禰宜様宮田は、珍しい日和りにホッと重荷を下したような楽な・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 漁師共の着て居るその「どてら」みたいなものと、船じるし、松飾りをした船とが、しっくりとつり合って、絵にでも書いて置きたい様に見える。 春先の様に水蒸気が多くないので、まるで水銀でもながす様に、テラテラした海面の輝きが自然に私の眼を・・・ 宮本百合子 「冬の海」
出典:青空文庫