・・・…… 将軍に従った軍参謀の一人、――穂積中佐は鞍の上に、春寒の曠野を眺めて行った。が、遠い枯木立や、路ばたに倒れた石敢当も、中佐の眼には映らなかった。それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。「・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思い、なんとかいう発句を書いたりした。今はもう発句は覚えていない。しかし「喉頭結核でも絶望するには当たらぬ」などという気休めを並べたことだけはいまだにはっきりと覚えている。 ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・古い大木となって、幹が朽ち苔が生えて枯れたように見えていても、春寒の時からまだまだ生きている姿を見せて花を咲かせる。 早生の節成胡瓜は、六七枚の葉が出る頃から結顆しはじめるが、ある程度実をならせると、まるでその使命をはたしてしまったかの・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・ ことしの春寒のころになってから三毛の生活に著しい変化が起こって来た。それまでほとんどうちをあける事のなかったのが、毎日のように外出をはじめた。従来はよその猫を見るとおかしいほどに恐れて敵意を示していたのが、どうした事か見知らぬ猫と庭の・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ そして今でもこの曲を聞くと、蒲団の外に出して書物をささえた私の指先に、しみじみしみ込むようであった春寒をも思い出すのである。 寺田寅彦 「春寒」
・・・それを逃れたとしても必然に襲うて来る春寒の脅威は避け難いだろう。そうすると罎を出るのも考えものかもしれない。 過去の旅嚢から取り出される品物にはほとんど限りがない。これだけの品数を一度に容れ得る「鍋」を自分は持っているだろうか。鍋はある・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・また梅が散る春寒の昼過ぎ、摺硝子の障子を閉めきった座敷の中は黄昏のように薄暗く、老妓ばかりが寄集った一中節のさらいの会に、自分は光沢のない古びた音調に、ともすれば疲れがちなる哀傷を味った事もあった。 しかしまた自分の不幸なるコスモポリチ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・この淋しい京を、春寒の宵に、とく走る汽車から会釈なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯が尽きる北の果まで通らねばならぬ。「遠いよ」と主人が後から云う。「遠いぜ」と居士が前か・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫