・・・春雨の中や雪おく甲斐の山 これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・あいにくの吹き降りで、不二見村の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹が、青い杓子をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡を後ろにして、夏目先生の「草枕」の一節を思い出させたのは、今でも歴・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
一 如月のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・……その森、その樹立は、……春雨の煙るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも逆に生えた蓬々の髯である。 その空へ、すらすらと雁のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据って、瞬・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
雛――女夫雛は言うもさらなり。桜雛、柳雛、花菜の雛、桃の花雛、白と緋と、紫の色の菫雛。鄙には、つくし、鼓草の雛。相合傘の春雨雛。小波軽く袖で漕ぐ浅妻船の調の雛。五人囃子、官女たち。ただあの狆ひきというのだけは形も品もなくも・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・省作は泣いても春雨の曇りであって雪気の時雨ではない。 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分が・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「雨戸を閉めに立つと池の面がやや鳥肌立って、冬の雨であった」と書いてあります。「私」は書斎で雨を聴き、坂田翁も雨を聴いたのです。「春雨じゃ濡れて行こう」などという雨ではありません。ただ、雨の音を聴いたのです。それだけです。冒頭の「私」が聴く・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・これは、面白い、とひとりで首を振りながら感服なさって腕組みをし、しとしとは、どうか、それじゃ春雨の形容になってしまうか、やはり、さらさらに、とどめを刺すかな? そうだ、さらさらひらひら、と続けるのも一興だ。さらさらひらひら、と低く呟いてその・・・ 太宰治 「千代女」
・・・試みに「春雨」「五月雨」「しぐれ」の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困惑を経験するであろうと思われる。「花曇り」「かすみ」「稲妻」などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの「ウェッ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・「佐渡」でも「天の川」でも同様である。いったいに俳句の季題と名づけられたあらゆる言葉がそうである。「春雨」「秋風」というような言葉は、日本人にとっては決して単なる気象学上の術語ではなくて、それぞれ莫大な空間と時間との間に広がる無限の事象とそ・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
出典:青空文庫