・・・ 一秒時の間、扉の開かれた跡の、四角な戸口が、半明半暗の廊下を向うに見せて、空虚でいた。そしてこの一秒時が無窮に長く思われて、これを見詰めているのが、何とも言えぬ苦しさであった。次の刹那には、足取り行儀好く、巡査が二人広間に這入って来て・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 乱れがみをむしりつつ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間に痩せた指は細くなって、右の手の四つの指環は明星に擬えた金剛石のをはじめ、紅玉も、緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅に、浅緑に皆水に落ちた。 どうでもなれ、左・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 強て何か話が無いかとお尋ねならば、仕方がありません、わたくしが少時の間――左様です、十六七の頃に通学した事のある漢学や数学の私塾の有様や、其の頃の雑事や、同じ学舎に通った朋友等の状態に就いてのお話でも仕て見ましょう。今でも其の時分の面・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・戦は午を過ぐる二た時余りに起って、五時と六時の間にも未だ方付かぬ。一度びは猛き心に天主をも屠る勢であった寄手の、何にひるんでか蒼然たる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出される。搏つ音の絶えたるは一時の間か。暫らくは鳴りも静まる。 ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
去る十二月十九日午後一時半から二時の間に、品川に住む二十六歳の母親が、二つの男の子の手をひき、生れて一ヵ月たったばかりの赤ちゃんをおんぶして、山の手電車にのった。その時刻にもかかわらず、省線は猛烈にこんで全く身動きも出来ず・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・ それでも、叱られ叱られ毎日、朝から晩まで、こせこせ働いて居たうちは、いろいろな仕事に気がまぎれて、少時の間辛い事を忘れて居る様な時もあったけれ共、こう床についたっきりになって、何をするでもなくて居るのは只辛い事ばかりが思われて、お君は・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・―― 朝八時と十時の間。夜は九時から十一時前後、ホテルの黒猫は廊下のエナメル痰壺のわきに香箱をつくって種々雑多な色の靴とヤカンの行進を眺めていた。各々の足音が違うように大小恰好の違うヤカンを下げたホテルの住人が汽車から駅の湯沸所へ通うよ・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ 夜九時すぎから十時の間に、市電や省線にのりこんで来る詰襟の少年たちの心の底に求められているものは、何と云っても自分たちが偶然生れあわせた境遇に抗して、人生の可能を自分たちの現実によりひろげよりゆたかに獲得して行きたい熱望であろうと思う・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
・・・本が面白かった許りではなく、僅かな時の間に、彼程退屈だった雨が急に晴れ上って呉れた事がすっかり私の気分を明るく仕たのでございます。 澱んで居た雲が徐々に動き始めました。絶壁のように厚い雲の割目から爽やかな水浅黄の空が覗いて、洗われた日光・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・それに、昼間から夜に移ろうとする夕靄、罩って段々高まって来る雑音、人間の引潮時の間に、この街上を眺めているのは面白かった。私はライオンの傍の電柱の下で、永い間群集を見た。四辺が次第に鳩羽色となり、街燈がキラキラ新しい金色で瞬き出すと、どんな・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
出典:青空文庫