・・・ 江丸の長沙を発したのは確か七時か七時半だった。僕は食事をすませた後、薄暗い船室の電灯の下に僕の滞在費を計算し出した。僕の目の前には扇が一本、二尺に足りない机の外へ桃色の流蘇を垂らしていた。この扇は僕のここへ来る前に誰かの置き忘れて行っ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・…… 十一時半の教官室はひっそりと人音を絶やしている。十人ばかりの教官も粟野さん一人を残したまま、ことごとく授業に出て行ってしまった。粟野さんは彼の机の向うに、――と云っても二人の机を隔てた、殺風景な書棚の向うに全然姿を隠している。しか・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・彼も自分の時計を帯の間に探ったが十時半になっていた。「十時半ですよ。あなたまだ食わないんだね」 彼は少し父にあたるような声で監督にこう言った。 それにもかかわらず父は存外平気だった。「そうか。それではもういいから行って食うと・・・ 有島武郎 「親子」
・・・今十一時半だ。この書き物を草している部屋の隣りにお前たちは枕を列べて寝ているのだ。お前たちはまだ小さい。お前たちが私の齢になったら私のした事を、即ち母上のさせようとした事を価高く見る時が来るだろう。 私はこの間にどんな道を通って来たろう・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明にその数字さえ算えられたのは、一点、蛍火の薄く、そして瞬をせぬのがあって、胸のあたりから、斜に影を宿したためで。 手を当てると冷かった、光が隠れて、掌に包まれたのは襟飾の小さな宝・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 水の出盛った二時半頃、裏向の二階の肱掛窓を開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、膝を宙に水を見ると、肱の下なる、廂屋根の屋根板は、鱗のように戦いて、――北国の習慣に、圧にのせた石の数々はわずかに水を出た磧であった・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 時計を見ると、もう、十時半だ。しかし、まだ暑いので、褥を取る気にはならない。仰向けに倒れて力抜けがした全身をぐッたり、その手足を延ばした。 そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の報鐘さえ聞かなかった。怎うして焼けたろう? 怎うしても焼けたとは思われない。 暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思っ・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ 金之助は床の間に置いてあった銀側時計を取って見て、「三時半少し過ぎだ。まあいいじゃねえか」「いえ、そうしちゃいられないの、まだほかへ廻らなきゃならないから……」とお光は身支度しかけたが、「あの、こないだの写真は空いてて?」「持・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・店があくのは朝の十一時だが、十時半からもうボックスに収まって、午前一時カンバンになるまでねばっている。ざっと十三時間以上だ。その間一歩も外へ出ない。いわば一日中「カスタニエン」で暮しているのだ。梃でも動かぬといった感じで、ボックスでとぐろを・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
出典:青空文庫