・・・そういう時勢であったから椿岳は二軒懸持の旦那で頤を撫でていたが、淡島屋の妻たるおくみは男勝りの利かぬ気であったから椿岳の放縦気随に慊らないで自然段々と疎々しくなり、勢い椿岳は小林の新らしい妻にヨリ深く親むようになった。かつ淡島屋の身代は先代・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 小説家としても『浮雲』は時勢に先んじ過ぎていた。相当に売れもし評判にもなったが半ばは合著の名を仮した春廼舎の声望に由るので、二葉亭としては余りありがたくもなかった。数ある批評のどれもが感服しないのはなかったが、ドレもこれも窮所を外れて・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・児供のカタゴトじみた文句を聯べて辻褄合わぬものをさえ気分劇などと称して新らしがっている事の出来る誠に結構な時勢である。が、坪内君が『桐一葉』を書いた時は団十郎が羅馬法王で、桜痴居士が大宰相で、黙阿弥劇が憲法となってる大専制国であった。この間・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・は、こうも思って、自分のやゝもすれば、沈み勝な気持を引立てたいとしますけれど、東洋流の思想が、子供の時分から頭にはいっている私達には、人生五十年というような言葉がいまでも思い出されることがあるのです。時勢が積極的となり、事実また、ほんとうに・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・むしろそれが時勢に適応することだと思っているらしい。 少し作家的反省と自負とがあるならば、これは、単に、資本家の意図にしかすぎないことを知るのである。真の大衆は、最も彼等の生活に親しみのある。いろ/\な真実の言葉を聞こうと欲するにちがい・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・何の主義によらず唱えらるゝに至った動機、世間が之を認めたまでには、痛切な根柢と時勢に対する悲壮な反抗と思想上の苦闘があったことを知らなければならぬ。だから、批評家が一朝机上の感想で、之を破壊することは不可能であるし、また無理だと思う。 ・・・ 小川未明 「若き姿の文芸」
・・・「仕事を大事にする気はわかるが、仕事のために高利貸に厄介になるというのも、時勢とはいいながら変な話だ。二千円ぐらい貯金があってもよさそうなものだ。随分映画なんかで稼いだんだろう」「シナリオか。随分書いたが、情報局ではねられて許可にな・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ それより三世、即ち彼の祖父に至る間は相当の資産をもち、商を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・君達はどう考えて居るか知らんがね、今日の時勢というものは、それは恐ろしいことになってるんだからね。いずれの方面で立つとしても、ある点だけは真面目にやっとらんと、一寸のことで飛んでもないことになるぜ。僕も職掌柄いろ/\な実例も見て来てるがね、・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・いまの時勢に、くるしいなんて言って、酒をくらって、あっぱれ深刻ぶって、いい気になっている青年が、もし在ったとしたなら、私は、そいつを、ぶん殴る。躊躇せず、ぶん殴る。けれども、いまの私は、その青年と、どこが違うか。同じじゃないか。としをとって・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫