・・・ かつて、極めて孤独な時期が私にもあった。ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。 二、三日してアパートの部屋に、・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 産婆の世話で、どこかの病院かで産まして、それから下宿の下の三畳の部屋でもあてがって、当分下宿で育てさせる――だいたいそうと相談をきめてあったのだが、だんだん時期の切迫とともに、自分の神経が焦燥しだした。「あなたの奥さんのうちは財産・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 一年中で私の最もいやな時期ももう過ぎようとしています。思い出してみれば、どうにも心の動きがつかなかったような日が多かったなかにも、南葵文庫の庭で忍冬の高い香を知ったようなときもあります。霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるものに反抗し、否定するアンチモラールはまだいい。それはなお倫理的関心の領域にいるから・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・こちらも、攻撃の時期と口実をねらって相手を睨みつゞけた。 十一月十八日、その彼等の部隊は、東支鉄道を踏み越してチチハル城に入城した。昂鉄道は完全に××した。そして、ソヴェート同盟の国境にむかっての陣地を拡げた。これは、もう、人の知る通り・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・「御覧なさい、御城の周囲にはいよいよ滅亡の時期がやって来ましたよ……これで二三年前までは、川へ行って見ても鮎やハヤが捕れたものでサ。いくら居なくなったと言っても、まだそれでも二三年前までは居ました……この節はもう魚も居ません……この松林・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・あのころは、もう日本も、やぶれかぶれになっていた時期でしょうね。私がどんな人の手から、どんな人の手に、何の目的で、そうしてどんなむごい会話をもって手渡されていたか、それはもう皆さんも、十二分にご存じのはずで、聞き飽き見飽きていらっしゃること・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・ 次に上の仮想的の場合において現象の発生する時期がある程度まで知られたりと仮定せよ。この場合に起る地震の強弱の度を如何ほどまで予知し得べきか。単に糸を引き切る場合ならば簡単なれども、地殻のごとき場合には破壊の起り方には種々の等級あるべし・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・ お絹の説明によると、おひろは踊りもひとしきり高潮に達した時期があって、お絹自身が目を聳てたくらいだったが、やっぱりいろいろな苦労があって、芸事ばかりにも没頭していられなかった。「今の人はほんとに、ちょろつかなもんや。私に限らず、家・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・盲目の衰え易い盛りの時期は過ぎ去って居るのである。其でも太十の情は依然として深かった。四 彼がお石を知ってから十九年目、太十が六十の秋である。彼はお石を待ち焦れて居た。其秋のマチにも瞽女は隊を組んで幾らも来た。其頃になってか・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫