・・・ 何ほど恐怖絶望の念に懊悩しても、最後の覚悟は必ず相当の時機を待たねばならぬ。 豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・妾になれと客はさすがに時機を見逃さなかった。毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出掛けて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へお詣りしていたのだった。 二十日余り経つと、種吉のところへ柳吉の・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ われわれはちょうどわれわれの幸福と成功とに恰好な女性と、恰好な時機に、そうである故に、恋に陥るとはかぎらない。何の内助の才能もなく、一生の負荷となるような女性と、きわめて不相応な時機に、ただ運命的な恋愛のみの故で、はなれ難く結びつくこ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・しかしながらまだ、彼らが知性の否定や、啓示の肯定をいうようになる時機はおそらく遠いであろう。 われわれは生の探求に発足した青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬこと・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・というのは見掛けのものであって、当時者の間にはいろいろの不満も、倦怠も、ときには別離の危険さえもあったであろうが、愛の思い出と夫婦道の錬成とによってその時機を過ごすと多くは平和な晩年期がきて終わりを全うすることができるのである。今更・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・実はあの手紙、大変忙しい時間に、社の同僚と手分けして約二十通ちかくを書かねばならなかったので、君の分だけ、個人的な通信を書いている時機がなかった。稿料のことを書かないのは却って不徳義故誰にでも書くことにしている。一緒に依頼した共通の友人、菊・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 注射がきいたのか、どうか、或いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。「ね、お家が焼けちゃったろ・・・ 太宰治 「薄明」
・・・十回目あたりからベーアのつけていた注文の時機が到来したと見えて猛烈をきわめた連発的打撃に今までたくわえた全勢力を集注するように見え、ようやく疲れかかったカルネラの頽勢は素人目にもはっきり見られるようになった。 第十一回目のラウンドで、審・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時機が到着する事を望みかつ信ずる。その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう。 もしこの私の空想が到底実現される見込みがないという事に・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ 何人も疑う所のない点を疑う人は知識界に一時機を画する人である。 一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである、これを具備した人にして始めて碩学の名を冠するに足らんか。 寺田寅彦 「知と疑い」
出典:青空文庫