・・・静軒は花も既に散尽した晩春の静なる日、対岸に啼く鶯の声の水の上を渡ってかすかに聞えてくる事のいかに幽趣あるかを説いて下の如くに言っている。「凡ソ物ノ声、大抵隔ツテ聴クヲ好シトス。読書木魚琴瑟等ノ声最然リトナス。鳩ノ雨ヲ林中ニ喚ビ、雁ノ霜ヲ月・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ 巴里にては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬に赴く時、驟雨濺来って紅囲粉陣更に一段の雑沓を来すさま、巧にゾラが小説ナナの篇中に写し出されたりと記憶す。 紐育にては稀に夕立ふることあり。盛夏の一・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・ 今、実例をツルゲーネフに取ってこれを云えば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である、春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度桜花が爛と咲き乱れて、稍々散り初めようという所だ、遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
オーストリイのウィーン市のはずれに公園のように美しい墓地がある。そこに、ベートーヴェンの墓やモーツァルトの墓があった。偉大な音楽家の生涯にふさわしく、心をこめて意匠された墓が、晩春の花にかこまれてあるのを見た。 ポーラ・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・ 或る晩春の午後であった。 私が独りで、ぶらぶら白く埃の浮いた鋪道を京橋の方に歩いていると、前後して一人の若者が通りすがった。同じ方向に行く。これぞと云う定った目的はないらしく、彼は絵ハガキ屋のスタンド迄のぞいて、殆ど私と同時に一軒・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・麗わしい晩春の日とともに軽々と高く飛翔した私の心は今 水のように地下に滲み入り生えようとする作品の根を潤おす。 *わが芸術のことを思いその孤独さを思うと私は 朗らかな天を仰がずには居られな・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
坪内先生に、はじめて牛込余丁町のお宅でおめにかかったのは、もう十数年以前、私が十八歳の晩春であったと思う。両親が私の書いたものを坪内先生に見ていただくようにきめて、母が私を連れ余丁町のお家を訪ねたのであった。 私は受け・・・ 宮本百合子 「坪内先生について」
・・・ちょうど今より数日遅いやはり晩春であったが、山門の左右の聯の懸った窟門から、前庭の松花を眺めた気持。多分天王殿の左翼からであったろう。竹林の蔭をゆるやかな傾斜で蜒々と荒れるに任されていた甃廻廊の閑寂な印象。境内一帯に、簡素な雄勁な、同時に気・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つ――」 知人の高田が梶の所へ来て、よく云われるそんな注文を梶に出した。別に稀な出来事ではなかったが、この・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫