一 掃除をしたり、お菜を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗めていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開け・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・何物か意義ある筆の力をもって私ども罪に泣く同胞のために少しでも捧げたいと思っております――何卒紙背の微意を御了解くださるように念じあげます云々―― 終日床の中にいて、ようよう匐いでるようにして晩酌をはじめたのだったが、少し酔いの廻り・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・私は茶店の娘相手に晩酌の盃を嘗めていたが、今日の妻からの手紙でひどく気が滅入っていた。二女は麻疹も出たらしかった。彼女は八つになるのだが、私はその時分も冬の寒空を当もなく都会を彷徨していた時代だったが、発表する当のない「雪おんな」という短篇・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 老父と耕吉とが永い晩酌にかかっていると、継母はこんなようなことを言っては、二人の気を悪くさせた。 どんなものが書けるのだろうと危ぶまれはしたが、とにかくに小説を書いて金を儲けるという耕吉の口前を信じて、老父はむり算段をしては市へ世・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪うた。田甫道をちらちらする提燈の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその席に招かれた一人二人に途で逢った。逢う度毎に皆な知る人であるから二言三言の挨拶・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 定まって晩酌を取るというのでもなく、もとより謹直倹約の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌いなのではあるが、それでも少し飲むと賑やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、「晩には何か取りまして、ひさしぶり・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・「その日に自分が為るだけの務めをしてしまってから、適宜の労働をして、湯に浴って、それから晩酌に一盃飲ると、同じ酒でも味が異うようだ。これを思うと労働ぐらい人を幸福にするものは無いかも知れないナ。ハハハハハ。」と快げに笑った主人の面か・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・そうして一合の晩酌で大きい顔を、でらでら油光りさせて、老妻にいやらしくかまっています。少年の頃、夢に見ていた作家とは、まさか、こんなものではありませんでした。本当に、「こんな筈ではなかった」という笑い話。けれども現在の此の私は、作家以外のも・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・その夜は大工さんはたいへん御機嫌がよろしくて、晩酌などやらかして、そうして若い小柄なおかみさんに向かい、『馬鹿にしちゃいけねえ。おれにだって、男の働きというものがある』などといって威張り時々立ち上がって私を神棚からおろして、両手でいただくよ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・いまでも晩酌を欠かした事が無いという。 お膳が出た。「飲みなさい。」英治さんは私にビイルをついでくれた。「うん。」私は飲んだ。 英治さんは、学校を卒業してから、ずっと金木町にいて、長兄の手助けをしていたのだ。そうして、数年前・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫