・・・まだ一度も笑顔を見せなかった美人も、いまは花のごときえみをたたえて紅葉をよろこんだ。晩食には湖水でとれた鯉の洗いを馳走してくれ、美人の唇もむろん昼ほどは固くなく、予は愉快な夢を見たあとのような思いで陶然として寝についた。・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・殊に欧風の晩食を重ずることは深き意味を有するらしい、日中は男女老幼各其為すべき事を為し、一日の終結として用意ある晩食が行われる、それぞれ身分相当なる用意があるであろう、日常のことだけに仰山に失するような事もなかろう、一家必ず服を整え心を改め・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ と、変に凄んだ声でおれに言い言いし、働きすぎて腰が抜けそうにだるいと言う婆さんの足腰を湯殿の中で揉んでやったり、晩食には酒の一本も振舞ってやったりして鄭重に扱っていたが、湯崎へ来てから丁度五日目、「――ほんまに腰が抜けてしもた」・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・是非も無い、簡素な晩食は平常の通りに済まされたが、主人の様子は平常の通りでは無かった。激しているのでも無く、怖れているのでも無いらしい。が、何かと談話をしてその糸口を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠の妻たる・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・むすこはそれから三日目の晩食後に帰って行きましたが、その晩食の席で主婦がサンドウィッチをこしらえて新聞に包んでやりました。汽車の着くのは夜半だからといって、いちばん厚いパンの切れを選っていました。食事が済んで汽車の出るまでだいぶ間があるので・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・大変に御馳走があって二の膳付の豊富な晩食を食わされたのでいささか嚢中の懸念があったではないかと思う。そのせいではっきりそれを覚えているのかもしれない。道中の昼食は一人前五、六銭であったらしい。どこかの昼食で甥が一、二杯自分より多く飯をくった・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・「今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た」と片足を宙にあげて、残れる膝の上に置く。「さした事もない」とウィリアムは瞬きして顔をそむける。「夜鴉の羽搏きを聞かぬうちに、花多き国に行く気はないか」とシワルドは意味有気に問う。「花・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。 この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・にほひ吐く草花歌会の様よめる中に人麻呂の御像のまへに机すゑ灯かかげ御酒そなへおく設け題よみてもてくる歌どもを神の御前にならべもてゆくことごとく歌よみいでし顔を見てやをら晩食の折敷ならぶる汁食とすすめめぐり・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・けれども、もっと皿数の多い、従ってもっと楽しかるべき晩食になると、彼は殆ど精神的な疲労さえ覚えた、猶悪いことには生憎これが降誕祭の晩ではないか。 縞の小さいエプロンをかけた彼女が食器を積んだ大盆を抱えて不本意らしく台所に出てゆく姿を見送・・・ 宮本百合子 「或る日」
出典:青空文庫