・・・わたくしは晩餐をすましてから、会社の人に導かれて、この公園を散歩したが、一時間あまりで帰って来たので、その道程は往復しても日本の一里を越していまいと思った。 やがて裏手の一室に這入って、寝に就いたが、わたくしは旅のつかれを知りながらなか・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・文壇の諸先輩と共に帝国ホテルに開かれた劇場の晩餐会に招飲せられたことがあった。尋でその舞台開の夕にも招待を受くるの栄に接したのであったが、褊陋甚しきわが一家の趣味は、わたしをしてその後十年の間この劇場の観棚に坐することを躊躇せしめたのである・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ 余は晩餐前に公園を散歩するたびに川縁の椅子に腰を卸して向側を眺める。倫敦に固有なる濃霧はことに岸辺に多い。余が桜の杖に頤を支えて真正面を見ていると、遥かに対岸の往来を這い廻る霧の影は次第に濃くなって五階立の町続きの下からぜんぜんこの揺・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 京都の深田教授が先生の家にいる頃、いつでも閑な時に晩餐を食べに来いと云われてから、行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる。ようやくその約を果して安倍君といっしょに大きな暗い夜の中に出た時、余は先生はこれから先、もう何年ぐらい・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・ 私が先月十五日の夜晩餐の招待を受けた時、先生に国へ帰っても朋友がありますかと尋ねたら、先生は南極と北極とは別だが、ほかのところならどこへ行っても朋友はいると答えた。これはもとより冗談であるが、先生の頭の奥に、区々たる場所を超越した世界・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・ その日の夕暮に一城の大衆が、無下に天井の高い食堂に会して晩餐の卓に就いた時、戦の時期は愈狼将軍の口から発布された。彼は先ず夜鴉の城主の武士道に背ける罪を数えて一門の面目を保つ為めに七日の夜を期して、一挙にその城を屠れと叫んだ。その声は・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・或日同僚のドイツ人ユンケル氏から晩餐に招かれた。金沢では外国人は多く公園から小立野へ入る入口の処に住んでいる。外国人といっても僅の数に過ぎないが。私はその頃ちょうど小立野の下に住んでいた。夕方招かれた時刻の少し前に、家を出て、坂を上り、ユン・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・家族の晩餐のためにも礼装に着かえる某々卿にとって、ノックされるのが何より厭な暗い性のドアを、ローレンスはフランネル・シャツを着ている男にノックさせた。因習によって無知にされ、そのかげでは人間性の歪められている性の問題のカーテンを、ゆすぶらせ・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・大使館でその歓迎と幸先祝いの晩餐がひらかれ、私も座に連ったのですが、そのとき人見さんは一同を眺めわたしながら高々とした声で「このお嬢さん達をつれて歩くのは容易じゃありませんよ、何しろふだんは寝床をあげたこともない身分の人たちばっかりですから・・・ 宮本百合子 「現実の問題」
・・・従弟の歓迎の意味で近親の者が集って晩餐を食べた時、私は帰ってから始めて祖母に会った。子供のように、赤いつやつやした両頬で、楽しそうにはしていたが、二三ヵ月前に比べると、ぐっと老耄したように見えた。弱々しいあどけなさめいたものが、体の運び方に・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
出典:青空文庫