・・・客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」 そんなことまで思っている。 彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」という思いは強く刻まれた。「たくさんの虫が、一匹の死にかけてい・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・いてしまうし、朝起きてみると蒲団の息のかゝったところ一面が真白にガバ/\に凍えている、夜中に静かになると、突然ビリン、ビリンともののわれる音がする、家をすっかり閉め切って、ストーヴをドシ/\燃しても、暑いのはストーヴに向いている身体の前の方・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に続く石段の方から通って来るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往ったり来たりして、曾て朝顔狂と言われたほどこの花に凝った鮫島理学士のことを思い出す。手長、獅子、牡丹なぞの講釈を聞・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・しかし、その毒蛇も竜も、日中一ばん暑いときに三時間だけ寝ますから、そのときをねらって、こっそりとおりぬければ大丈夫です。」と言いました。ウイリイはそのとおりにして、犬と一しょに、無事に城の中へはいりました。 城の門も、中の方々の戸も、す・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ わかいおかあさんはこの大事な重荷のために息を切って、森の中は暑いものだから、汗の玉が顔から流れ下りました。「のどがかわきました、ママ」 とおさないむすめは泣きつくのでした。「いい子だからこらえられるだけこらえてごらんなさい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・また、晩ごはんのときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐り、祖母、母、長兄、次兄、三兄、私という順序に並び、向う側は、帳場さん、嫂、姉たちが並んで、長兄と次兄は、夏、どんなに暑いときでも日本酒を固執し、二人とも、その傍に大型のタオルを用意させ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・九十度近い暑い日が脳天からじりじりと照りつけた。四時過ぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎るように聞こえる。時々シュッシュッと耳のそばを掠めていく。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・石崖の上の端近く、一高の学生が一人あぐらをかいて上着を頭からすっぽりかぶって暑い日ざしをよけながら岩波文庫らしいものを読みふけっている。おそらく「千曲川のスケッチ」らしい。もう一度ああいう年ごろになってみたいといったような気もするのであった・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・忘れもしねえ、暑い土用の最中に、餒じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの客人を載せって、やれやれと思って棍棒を卸すてえとぐらぐらと目が眩って其処へ打倒れた。帰りはまた聿駄天走りだ。自分の辛いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜らずに待ってい・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫