・・・「苫を上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗中へ出さしった。 おれに貸せ、奴寝ろい。なるほどうっとうしく憑きやあがるッて、ハッと掌へ呼吸を吹かしったわ。 一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真直に空を見さしった・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 今は疑うべき心も失せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を透して、声する方に、縋るように寄ると思うと、「燈を消せ。」 と、蕭びたが力ある声して言った。「提灯を……」「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度消・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・トタンに件の幽霊は行燈の火を吹消して、暗中を走る跫音、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭に至りて、そのままハタと留むべきなり。 夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮りて、諸君は一夜を待明かさむ。 明くるを待ちて主翁に会・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・運の面は何様なつらをして現われて来るものか、と思えば、流石に真暗の中に居りながらも、暗中一ぱいに我が眼が見張られて、自然と我が手が我が左の腰に行った。然し忽ち思返して、運は何様な面をしておれの前に出て来るか知らぬが、おれは斯様な面をして運に・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・さすが守銭奴の私も、この暗中の、ただならぬ険悪の気配には、へたばった。それに自身の、守銭奴ぶりも、あさましくなって来て、「そんなに金が、ほしいのかね。待っている女房、子供もあるんだろう。僕にも覚えが有るよ。女房がヒステリイみたいに口やかまし・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 急速な運動を人間の目で見る場合には、たとえば暗中に振り回す線香の火のような場合ならば網膜の惰性のためにその光点は糸のように引き延ばされて見えるのであるが、普通の照明のもとに人間の運動などを見る場合だとその効果は少なくも心理的には感じら・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも暗中にやってのけて――諸君、議会における花井弁護士の言を記臆せよ、大逆事件の審判中当路の大臣は一人もただの一度も傍聴に来なかったのである――死の判決で国民を嚇して、十二名の恩赦でちょっと・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・乗合一同皆思案にくれて居る中、午後四時頃になって一道の光明は忽ち暗中に輝いて見えた。それは、上陸の許否は分らぬがとにかく、和田の岬の検疫所へ行く事を許されたという事であった。上陸せんまでも、泊って居るよりは動いて居る方が善いというのは船中の・・・ 正岡子規 「病」
・・・その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火を認めたような気がしたのである。 松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人がある。そこへは紀伊国熊野浦長島外町の漁師定右衛門と云うものが毎日魚を送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一家と・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ あたりには誰もいなかった。暗中匕首を探ぐってぐっと横腹を突くように、栖方は腰のズボンの時計を素早く計る手つきを示して梶に云った。「しかし、それなら発表するでしょう。」「そりゃ、しませんよ。すぐ敵に分ってしまう。」「それにし・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫