・・・殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかり・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ ×声ばかりきこえる。暗黒。Aの声 暗いな。Bの声 もう少しで君のマントルの裾をふむ所だった。Aの声 ふきあげの音がしているぜ。Bの声 うん。もう露台の下へ来たのだよ。 ・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・ しかし迷信はどこまでも迷信の暗黒面を腰にさげている。中庸というものが群集の全部に行き渡るやいなや、人の努力は影を潜めて、行く手に輝く希望の光は鈍ってくる。そして鉛色の野の果てからは、腐肥をあさる卑しい鳥の羽音が聞こえてくる。この時人が・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・こう思うと、またある特殊の物、ある暗黒なる大威力が我身の内に宿っているように感じるのである。 もしこいつ等が、己が誰だということを知ったなら、どんなにか目を大きくして己の顔を見ることだろう。こう思って、きょうの処刑の状況、その時の感じを・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 見よ、ヨーロッパが暗黒時代の深き眠りから醒めて以来、幾十万の勇敢なる風雲児が、いかに男らしき遠征をアメリカアフリカ濠州および我がアジアの大部分に向って試みたかを。また見よ、北の方なる蝦夷の島辺、すなわちこの北海道が、いかにいくたの風雲・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・というのは、丑満頃、人が四人で、床の間なしの八畳座敷の四隅から、各一人ずつ同時に中央へ出て来て、中央で四人出会ったところで、皆がひったり座る、勿論室の内は燈をつけず暗黒にしておく、其処で先ず四人の内の一人が、次の人の名を呼んで、自分の手を、・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・ 碧水金砂、昼の趣とは違って、霊山ヶ崎の突端と小坪の浜でおしまわした遠浅は、暗黒の色を帯び、伊豆の七島も見ゆるという蒼海原は、ささ濁に濁って、果なくおっかぶさったように堆い水面は、おなじ色に空に連って居る。浪打際は綿をば束ねたような白い・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・でこぼこした石をつたって二丈ばかりつき立っている、暗黒な大石の下をくぐるとすぐ舟があった。舟子は、縞もめんのカルサンをはいて、大黒ずきんをかぶったかわいい老爺である。 ちょっとずきんをはずし、にこにこ笑って予におじぎをした。四方の山々に・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 余り憚りなくいうと自然暗黒面を暴露するようになるが、緑雨は虚飾家といえば虚飾家だが黒斜子の紋附きを着て抱え俥を乗廻していた時代は貧乏咄をしていても気品を重んじていた。下司な所為は決して做なかった。何処の家の物でなければ喰えないなどと贅・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ろ筋書も何にもなくて無準備無計画で初めたのが勢いに引摺られてトントン拍子にバタバタ片附いてしまおうとは誰だって夢にだも想像しなかったのだから、二葉亭だってやはり、もし存生だったら地震に遭逢したと同様、暗黒でイキナリ頭をドヤシ付けられたように・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
出典:青空文庫