・・・といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋を渡って、すぐ掛りの小綺麗なしもたやが今日から暮す家だと、おきみ婆さんに教えられた時は胸がおどったが、しかし、そこにはすでに浜子という継母がいた。あとできけば、浜子はもと南地の芸者だ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 細君が生きていた頃は、送って来る為替や小切手など、細君がちゃんと払出を受けていたのだが、細君が死んで、六十八歳の文盲の家政婦と二人で暮すようになると、もう為替や小切手などいつまでも放ったらかしである。 近所に郵便局があるので、取り・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・私は都会の寒空に慄えながら、ずいぶん彼女たちのことを思ったのだが、いっしょに暮すことができなかったので、私は雪おんなの子を抱いてやるとその人は死ぬという郷里の伝説を藉りて、そうした情愛の世界は断ち切りたいと、しいて思ったものであった。「雪子・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 昨年の八月義母に死なれて、父は身辺いっさいのことを自分の手で処理して十一月に出てきて弟たちといっしょに暮すことになったのだが、ようよう半年余り過されただけで、義母の一周忌も待たず骨になって送られることになったのだった。実の母が死んです・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ そこで自分は戦争でなく、ほかに何か、戦争の時のような心持ちにみんながなって暮らす方法はないものかしらんと考えた。考えながら歩いた。 国木田独歩 「号外」
・・・かゝる所に敷皮うちしき、蓑うちきて夜を明かし、日を暮らす。夜は雪雹雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべき住居なり」 こうした荒寥の明け暮れであったのだ。 承久の変の順徳上皇の流され給うた佐渡へ、その順逆の顛倒に憤って立・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・それよりは都会へ行って、ラクに米の飯を食って暮す方がどれだけいゝかしれない。 両人は、田舎に執着を持っていなかった。使い慣れた古道具や、襤褸や、貯えてあった薪などを、親戚や近所の者達に思い切りよくやってしまった。「お前等、えい所へ行・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ まず賤しからず貴からず暮らす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。 主人は打水を了えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄をはくかとおもうとすぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・それがこの山の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身になろうなどとは、実に自分ながら思いもよらない変遷なのである。 こう思い耽って居ると、誰か表の方で呼ぶような声がする。何の気なしに自分は出て見た。 旅・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・この男等の生涯も単調な、疲労勝な労働、欲しいものがあっても得られない苦、物に反抗するような感情に富んでいるばかりで、気楽に休む時間や、面白く暮す時間は少ないのであるが、この生涯にもやはり目的がないことはあるまいと思われるのである。 この・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫