・・・朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。 何かしなければならぬ。 釣。 将棋。 そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのだかどうだか、それは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・それで観察力の弱い人は、言わば一生を退屈して暮らすようなものかもしれません。諸君も今のうちにこの観察力を養っておく事が肝要だろうと思います。それでさし当たりこの夏休みに海岸へでも行かれる人のために何か観察の材料になりそうな事を少しばかりお話・・・ 寺田寅彦 「夏の小半日」
・・・「月々大阪からいくらか仕送ってもらって、こっちで暮らすわけにゆかない。商売するにしても、何か堅気なものでなくちゃ。お絹ちゃんなんかには、こんな商売はとてもだめだ」「けど女のする商売といえば、ほかに何にもないでしょう」「さあね」・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮すかの競争になったのであります。どっちを家業にしたって命に別条はないにきまっているが、どっちへ行っても労力は同じだとは云われません。人力車を・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・僕は自然に友人を避け、孤独で暮すことを楽しむように、環境から躾けられてしまったのである。 こうした環境に育った僕は、家で来客と話すよりも、こっちから先方へ訪ねて行き、出先で話すことを気楽にして居る。それに僕は神経質で、非常に早く疲れ易い・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・そこだけ椅子のあるふき子の居間で暮すのだが、彼等は何とまとまった話がある訳でもなかった。ふき子が緑色の籐椅子の中で余念なく細かい手芸をする、間に、「この辺花なんか育たないのね、山から土を持って来たけれどやっぱり駄目だってよ」などと話・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ F君はドイツ語の教師をして暮す。私は役人をして、旁フランス語の稽古をして暮す。そして時々逢って遠慮のない話をする。二人の間には世間並の友人関係が成り立ったのである。 ―――――――――――― 翌年になった。四月・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・「大勢の知らない方と一つ部屋で一晩暮すのは厭なものでございますね。そうでございましょう。人間というものは夜は変になりますのね。誰も誰も持っている秘密が、闇の中で太って来て、恐ろしい姿になりますかと思われますね。ほんにこわいこと。でも、明・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・それゆえに、「一生を旅行で暮らすような」彼は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから避けて休みたい、ある土台を得たい」という心を起こすのである。そうしてそれが、たとい時に彼を宗教へ向かわせるにしても、・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫