・・・ 松山に渡った一行は、毎日編笠を深くして、敵の行方を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露さなかった。一度左近が兵衛らしい梵論子の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁もない他人だと云う事が明か・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・足の裏をくすむるように砂が掘れて足がどんどん深く埋まってゆくのがこの上なく面白かったのです。三人は手をつないだまま少しずつ深い方にはいってゆきました。沖の方を向いて立っていると、膝の所で足がくの字に曲りそうになります。陸の方を向いていると向・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・A おれはおれに歌を作らせるよりも、もっと深くおれを愛している。B 解らんな。A 解らんかな。しかしこれは言葉でいうと極くつまらんことになる。B 歌のような小さいものに全生命を託することが出来ないというのか。A おれは初・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一さまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯も広く屈むる中を、静に衝と抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺のしっとりする音。 と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾の衣紋を襲ねた、黒髪の艶・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・いままで知らなかったさびしさを深く脳裏に彫りつけた。夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹を取り妻が舵を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・と、僕は口を出して、「気狂いとまで一方に思った軍曹の、大胆な態度に君が深く打たれたので、夢中な心にもそれを忘れかねたんだろう。」「それ、さ。」友人は卓を打って、「僕は今でもその姿が見える様なんや。岡見伍長に大石軍曹は神さんや」と、気の弱・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・そういう時勢であったから椿岳は二軒懸持の旦那で頤を撫でていたが、淡島屋の妻たるおくみは男勝りの利かぬ気であったから椿岳の放縦気随に慊らないで自然段々と疎々しくなり、勢い椿岳は小林の新らしい妻にヨリ深く親むようになった。かつ淡島屋の身代は先代・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・これはわれわれが深く考うべきことで、われわれが学校さえ卒業すればかならず先生になれるという考えを持ってはならぬ。学校の先生になるということは一種特別の天職だと私は思っております。よい先生というものはかならずしも大学者ではない。大島君もご承知・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・神を信ずるよりも母を信ずる方が子供に取っては深く、且つ強いのである。実に母と子の関係は奇蹟と云っても可い程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味に於て光・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ 金之助は深くも気に留めぬ様子で、「こっちだっていつのことだかまだ分らねえんだから……だが、わけのねえことだから、見合いだけちょっとやらかして見ようか?」「え、見合いを」お光はぎょッとしたように面を振り挙げたが、「さあ……ね、だけど・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫