・・・夜の底はしだいに深くなって行った。私は力なく起ち上って、じっと川の底を覗いていると、おいと声を掛けられました。 振り向くと、バタ屋――つまり大阪でいう拾い屋らしい男でした。何をしているのだと訊いたその声は老けていましたが、年は私と同じ二・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩の絆にシッカと結びつけられながら、身ぶるいするようなあの鉄枠やあるいは囚舎の壁、鉄扉にこの生きた魂、罪に汚れながらも自分のものとしてシッカと抱いていねばな・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・それにつれてその痕はだんだん深く、まわりが大きくなって来た。 あるものはネエヴルの尻のようである。盛りあがった気味悪い肉が内部から覗いていた。またある痕は、細長く深く切れ込み、古い本が紙魚に食い貫かれたあとのようになっている。 変な・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・お前のいう通り若くて上品で、それから何だッけな、うむその沈着いていて気性が高くて、まだ入用ならば学問が深くて腕が確かで男前がよくて品行が正しくて、ああ疲労れた、どこに一箇所落ちというものがない若者だ。 たんとそんなことをおっしゃいまし。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・は代筆せよと仰せられ候間お言葉どおりを一々に書き取り申し候 必ず必ず未練のことあるべからず候 母が身ももはやながくはあるまじく今日明日を定め難き命に候えば今申すことをば今生の遺言とも心得て深く心にきざみ置かれたく候そなたが父は順・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 子どももなく、生活にも困らない夫婦は、何か協同の仕事を持つことで、真面目な課題をつくるのが、愛を堅め、深くする方法ではあるまいか。 すなわち学校、孤児院の経営、雑誌の発行、あるいは社会運動、国民運動への献身、文学的精進、宗教的奉仕・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・それだけに、打たれる度も深く強い。 ゴーゴリや、モリエールの持っていた冷かな情熱と憎悪を以て、今のブルジョアをバクロする喜劇を書いたら、それが一番効果があると云い度い位いだ。僕等の前には、ゴーゴリや、モリエールによって取扱わるべき材料が・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・それで主人の真面目顔をしていたのは、その事に深く心を入れていたためで、別にほかに何があったのでもない、と自然に分明したから、細君は憂を転じて喜と為し得た訳だったが、それも中村さんが、チョクに遊びに来られたお蔭で分ったと、上機嫌になったのであ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・俺は運動に出ると、何時でも、その速力の出し工合と、身体の疲労の仕方によって、自分の健康に見当をつける素朴な方法を注意深く実行している。 走りながら、こっちでワザと大きな声をあげると、隣りを走っている同志も大きな声を出した。エヘンとせき払・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ばかりへも二度の引眉毛またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶詞なきを同伴の男が助け上げ今日観た芝居咄を座興とするに俊雄も少々の応答えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫