・・・ 彼は其処につッ立って自分の方を凝と見て居る其眼つきを見て自分は更に驚き且つ怪しんだ。敵を見る怒の眼か、それにしては力薄し。人を疑う猜忌の眼か、それにしては光鈍し。たゞ何心なく他を眺る眼にしては甚決して気にしないで下さいな。気狂だと思っ・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ ところが、更に偽札は病院ばかりでなく、聯隊の者も、憲兵も、ロシア人も、掴まされていた。そして今は、偽札が西伯利亜の曠野を際涯もなく流れ拡まって行っていた。………… 黒島伝治 「穴」
・・・と云い了ってまた猪口を取り上げ、静に飲み乾して更に酌をさせた。「その日に自分が為るだけの務めをしてしまってから、適宜の労働をして、湯に浴って、それから晩酌に一盃飲ると、同じ酒でも味が異うようだ。これを思うと労働ぐらい人を幸福にするも・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 私が死刑を期待して監獄に居るのは、瀕死の病人が施療院に居るのと同じである、病苦の甚しくないだけ更に楽かも知れぬ。 これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・そこへもつてきて、こやつらは、そうでなくても少ない分前を、更に横取りしようとする。この「友喰い」は労働者を雇わなければならない「資本家」を喜ばせる。――北海道の冬は暗いのだ。 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・ とまた弟はおげんに言って見せて、更に言葉をつづけて、「姉さんも今度出ていらしって見て、おおよそお解りでしょう。直さんの家でも骨の折れる時ですよ。それは倹約にして暮してもいます。そういうことを想って見なけりゃ成りません。私も東京に自・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ これ傳説の傳説たる所以にして、堯は天に、舜は人に、禹は地に、即ちかの三才の思想に假托排列せられしものなるを知る也。 更に之をその内容より觀察するに、堯典には帝が羲・和二氏に命じて天文を觀測せしめ民に暦を頒ちしをいひ、羲仲を嵎夷に居・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・末弟は、更にがくがくの論を続ける。「空論をお話して一向とりとめがないけれど、それは恐縮でありますが、丁度このごろ解析概論をやっているので、ちょっと覚えているのですが、一つの例として級数についてお話したい。二重もしくは、二重以上の無限級数の定・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとする・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・学校のない日曜日には、殊更に朝早く起出て、冬の日の長からぬ事を恨んだが、二月になって或る日曜日の朝は、そのかいもなく雪であった。そして、ついぞ父親の行かれた事のない勝手口の方に、父の太い皺枯れた声がする。田崎が何か頻りに饒舌り立てて居る。毎・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫