・・・ 老訓導は重ねて勧めず、あわてて村上浪六や菊池幽芳などもう私の前では三度目の古い文芸談の方へ話を移して、暫らくもじもじしていたが、やがて読む気もないらしい書物を二冊私の書棚から抜き出すと、これ借りますよと起ち上り、再び防空頭巾を被って風・・・ 織田作之助 「世相」
・・・思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたまま埃をかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明る・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・長兄の望みは、そんなところに無かったのです。長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・いつか私が、貯金帳をいれてある書棚の引き出しの鍵を、かけるのを忘れていたら、あなたは、それを見つけて、困るね、と、しんから不機嫌に、私におこごとを言うので、私は、げっそり致しました。画廊へ、お金を受取りにおいでになれば、三日目くらいにお帰り・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・帰っての話によると、地震の時長男が二階に居たら書棚が倒れて出口をふさいだので心配した、それだけで別に異状はなかったそうである、その後は邸前の処に避難していたそうである。 夜警で一緒になった人で地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ こんな空想に耽りながら見ていると、簑の上に隙間なく並んでいる葉柄の切片が、なんだかこの隠れた小哲学者の書棚に背皮を並べた書物ででもあるような気がした。 この簑について思い出すのは、私が子供の時分に、母か誰かに教わったままに、簑虫の・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・しかしただ書棚の中に並んでいる書物の名をガラス戸越しにながめるだけでも自分には決して無意味ではなかった、ただそれだけで一種の興奮を感じ刺激と鞭撻を感ずるのであった。神社や寺院の前に立つ時に何かしら名状のできないある物が不信心な自分の胸に流れ・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・後ろの部屋にカーライルの意匠に成ったという書棚がある。それに書物が沢山詰まっている。むずかしい本がある。下らぬ本がある。古びた本がある。読めそうもない本がある。そのほかにカーライルの八十の誕生日の記念のために鋳たという銀牌と銅牌がある。金牌・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・一日余は余の書斎に坐って、四方に並べてある書棚を見渡して、その中に詰まっている金文字の名前が悉く西洋語であるのに気が付いて驚いた事がある。今まではこの五彩の眩ゆいうちに身を置いて、少しは得意であったが、気が付いて見ると、これらは皆異国産の思・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・そうして椅子を立ち上がって、書棚の中から黒い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁を朗々と読み始めた。しばらくすると、本を伏せてどうだと聞かれた。正直の所余には一言も解らなかったから、一体それは英語ですかと聞いた。すると先生は天来の滑稽を不・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
出典:青空文庫