・・・ この声が聞えるのには間遠であった。最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、急心に草を攀じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば孤屋の縁外の欠けた手水鉢に、ぐったりと頤をつけて、朽木の台にひざまずいて縋った、青ざめた幽霊を見た。 ・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ 妻女は亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。」 彼は口吃しつつ目瞬した。「一人の小児も亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児でした。」 と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫を濡らした。「妻の記念だっ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・と、U氏はYの悔悛に多少の同情を寄せていたが、それには違いなくても主人なり恩師なりの眼を掠めてその最愛の夫人の道ならぬ遊戯のオモチャになったYの破廉恥を私は憤らずにはいられなかった。Yは私の門生でも何でもなかった。が、日夕親しく出入して・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・忘却は総てのものに……永久の苦しみも喜びも、その人の人生観を一変させるほどの失恋の苦悩でも……を、やはり時が経てば、昔のそれのようにさせない。最愛の子を失うた親の悲しみも、月日が経てば忘れ得る。総ては時の裁断に待つのみだ。たゞ人間の理想も幸・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・生の母は父の仇です、最愛の妻は兄妹です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。 若し此運命から僕を救い得る人があるなら、僕は謹しんで教を奉じます。其人は僕の救主です。」 七 自分は一言を交えないで以上の物・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指、汝今われと共にこの清泉の岸に立つ、われは汝の声音中にわが昔日の心語を聞き、汝の驚喜して閃く所の眼光裡にわが昔日の快心を読むなり。ああ! われをしてしばしなりとも汝においてわが昔日を観取せしめよ、わが最・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・また花山法皇は御年十八歳のとき最愛の女御弘徽殿の死にあわれ、青春失恋の深き傷みより翌年出家せられ、花山寺にて終生堅固な仏教求道者として過ごさせられた。実に西国巡礼の最初の御方である。また最近の支那事変で某陸軍大尉の夫人が戦死した夫の跡を追い・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・から説き勧めた答案が後日の崇り今し方明いて参りましたと着更えのままなる華美姿名は実の賓のお夏が涼しい眼元に俊雄はちくと気を留めしも小春ある手前格別の意味もなかりしにふとその後俊雄の耳へ小春は野々宮大尽最愛の持物と聞えしよりさては小春も尾のあ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ とまた、ご自分の事を言い出し、「住むに家無く、最愛の妻子と別居し、家財道具を焼き、衣類を焼き、蒲団を焼き、蚊帳を焼き、何も一つもありやしないんだ。僕はね、奥さん、あの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね、大学の病院の廊下に寝泊りして・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・その名の由来は最愛の女房にも明さなかった。神烏の思い出と共に、それは魚容の胸中の尊い秘密として一生、誰にも語らず、また、れいの御自慢の「君子の道」も以後はいっさい口にせず、ただ黙々と相変らずの貧しいその日暮しを続け、親戚の者たちにはやはり一・・・ 太宰治 「竹青」
出典:青空文庫